夕暮れのタシクルガンのまちは、パミール高原のさわやかな冷気に包まれていた。昼間は眠ったように静かだった市街地に、華やかな民族衣装を着た女性の姿が目立ち始めた。

 赤、オレンジ、黄色を多用した服は、晴れ着ではなく普段着だ。ていねいに刺しゅうを施した手作りの丸い帽子の女性もいれば、その上にスカーフをかぶっている人もいる。スカーフの色や模様は年齢や未・既婚によって異なるらしい。一方の男性は地味な背広が多い。小さな屋台の物売りも、羊の放牧を終えて河原から戻ってきた牧畜の民も背広姿だ。

 あいさつの仕方が面白い。鼻と鼻をこすり合わせる。男女間では男性が差し出す手に女性が口づけする。イスラム教を信仰する人々にしては随分大胆なあいさつに思えた。

 シルクロードの要衝として、古代から多くの僧や探検家を迎えたタシクルガンだが、パミール高原最奥の地だけに一般の旅行者が訪れることは容易ではなかった。ところが、近年、大変革に見舞われた。パキスタンとの国境クンジェラブ峠が開放されたのだ。1982年には中パ両国民に開かれ、86年にはその他の外国人も国境越えができるようになった。

 峠の南のパキスタン北部には仏像誕生の地ガンダーラが、北上して中国に入れば中国最大のオアシス都市カシュガルがあり、さらには仏教美術の宝庫・敦煌に抜けることができる。シルクロードの歴史に関心のある人々にとっては、なんとも魅力あふれるルートが開放されたのだ。

 以来、先進国からの秘境ツアーが絶えない。私たちが泊まっていた「◆米爾(パミール)賓館」の一角にある県政府外事弁公室の主任はその名もパミールさん(48)というタジク族だ。「タシクルガンはシルクロードの核心部です。年間一万人以上の外国人が訪れます。パキスタン人を除くと、日本人が最も多いですよ」と語った。

 タシクルガン生まれのこのパミールさんは、北京にある中央民族学院に学んだというから少数民族のエリートである。もちろん漢語を話し、シルクロードは「絲綢之路(しちゅうのみち)」と表現した。北京在学中には、その顔つきを買われて米軍将官役を映画で演じるアルバイトをした。なるほど56も民族がいる中国ならば、外国人を雇う必要はない。

 パミールさんの案内で税関わきのパキスタン人の喫茶店を訪ねた。主人のタリブ・シャーさん(46)は、クンジェラブ峠を下ったパキスタンのフンザに家がある。中国労働省の外国人就業許可証を自慢げに見せながら、中国では珍しいおいしいミルクティーをごちそうしてくれた。

 日が暮れると、宿の別棟でタジク族の踊りが始まった。外国人観光客に見せるためというが、見物するのはほとんど地元の住民で料金もとらない。

 踊り子の一人がなぜか盛んにほほえみかけてくる。不思議に思っているうちに出し物が終わり、楽屋から私服に着替えた美少女が出てきた。なんだ、夕方、宿の中庭で言葉を交わしたウイグル族の18歳の少女ではないか。カシュガルから出稼ぎに来ていると言っていたが、まさかタジク族に化けて踊っているとは思わなかった。

 パミール高原は中華、インド、チベット、トルコ、ペルシャなどの大文明がしのぎを削ってきた歴史の大舞台である。新疆の住民の中心はいまウイグル族だが、10世紀ごろまではウイグル族ははるか東のモンゴル高原にいた。それまでの主役はイラン系の人々だったとされる。長い歴史で見れば、新疆の民族の変遷も激しかった。

 天真らんまんに民族を“詐称”して生活費を稼ぐ少女の笑顔から、「世界の屋根」に生きる民のしたたかさが伝わってきた。

(注)◆は「巾へん」に「白」

タシクルガンのまちで見かけた民族衣装の女性。新疆各地で見慣れたウイグル族とはかなり顔つきが違う

親しいタジク族同士は鼻をこすり合わせてあいさつをする。刺しゅう入りの帽子は女性が手作りする

映画の米国人役を務めたことがある県政府外事弁公室主任のパミールさん(右)とパキスタン商人のシャーさん。長年の友人だという
タシクルガンのまちの南の外れに国境警備隊が守る遮断機があった。雪山の向こうにパキスタンとの国境クンジェラブ峠があるが、手続きのうえでは、ここが国境になる
訪れる外国人観光客らを楽しませるタジク族の踊り。この少女は本物のタジク族だ。タシクルガンはクンジェラブ峠の開放で宿場町としての重みを増している