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嶋田 健
写真 北野 清

カシュガルの日曜市場に向かうウイグル族の人々。ポプラ並木のわきを行くロバ車は中国の西域を代表する景観だ。電柱の変圧器とロバ車のゴムタイヤを除けば、100年前、200年前とさして変わらぬ光景に違いない
 
  中国新疆(しんきょう)ウイグル自治区のカシュガルの日曜日は、コーランの朗誦(ろうしょう)と道路を埋める人々のざわめきで明けた。

 朝もやのなか、ポプラ並木の下を四方八方からウイグル族のロバ車、手押し車、自転車の群が押し寄せる。目指す場所はみな同じ日曜市場。ざっと見渡したところ、漢族はまったくいない。すべてウイグル族だ。

 市場に並ぶ商品は主食のナン、野菜、食用油、薬草、牧草、衣類そして生きた羊…。怪しげな治療器具を並べた大道歯科医も店開きする。いつの間にか売り手が買い手になり、買い手が売り手になる。ぜいたくな品はなにもない。しかし、生きていくうえで必要最低限のものすべてがここにある。

 甘粛省の敦煌を出てからタクラマカン砂漠を挟むように分かれた西域北道と西域南道は、砂漠が終わるここカシュガルで合流する。パミール高原を越えてさらに西に向かえば中央アジア諸国、南に下ればインド亜大陸。中国最西端のこのオアシス都市の重要性は、疏勒(そろく)と呼ばれた二千年前の漢の時代も今も変わらない。

 「疏勒国は…戸数千五百十、人口一万八千六百四十七…市場に 店が列(つら)なり…」

(小竹武夫訳『漢書』ちくま学 芸文庫)
 
 班固(はんこ)が著した『漢書』は、敦煌より西の西域の五十余国を紹介するなかで、唯一疏勒の部分でのみ市場の盛況ぶりに触れた。いかに疏勒の市場がにぎわっていたかがうかがえる。

 交易、交通の要衝であるカシュガルは、当然ながら政治的、軍事的要衝でもあった。班固の弟の武将・班超(はんちょう)は、匈奴(きょうど)の使節を切り殺し、西域における漢の支配権を確立した。

 班超が「虎穴(こけつ)に入らずんば虎児(こじ)を得ず」と喝破(かっぱ)して部下を督励したのはこのときだった。班超は疏勒を中心に20数年も西域に駐屯してにらみを利かせた。

 カシュガルの地政学的重要性は今世紀に入ってからも変わらなかった。北から迫るロシアと南の植民地インドから新疆をうかがう英国がともに領事館を置いて諜報(ちょうほう)・政治戦を繰り広げた。

 幾多の隊商、武将、間諜(かんちょう)、探検隊が行き交ったこのカシュガルは、中国最奥のオアシスとして、いまは辺境好きの外国人客をひきつける。

 驚いたことに、市街地のカフェでは、コカ・コーラを飲みながらハンバーガーを食べることができる。2000年を生き抜いてきたオアシス都市は、実にたくましい。

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