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「蔵経洞(ぞうきょうどう)の珍宝はかつてたびたび略奪に遭い、奪われた文書は数万件に上った…。貴重な文物は大量に海外に流出し、世界十数カ国の博物館などに分散している」 仏教美術の宝庫である莫高窟は、19世紀末から20世紀初頭にかけ、列強の研究者、探検家たちにとって絶好の標的となったのだった 。 発端は1900年だった、とされる。道教の道士・王円◆(おうえんろく)が現在第17窟と呼ばれる石窟(蔵経洞)で1000年以上前の大量の経典、絵画、公私文書を発見した。 1907年、英国の考古学者オーレル・スタインが敦煌を訪れ、かなりの部分を王道士から買い取る。これが世にいう「敦煌文書」であり、ここから「敦煌学」が始まった。 翌年、フランスの東洋学者ポール・ペリオが同じ石窟から大量の文書、絵画などを購入した。中国語の達人であるペリオの収集はとくに逸品ぞろいとなった。 さらに、11年、日本の浄土真宗本願寺派(西本願寺)法主・大谷光瑞(こうずい)が派遣した探検隊も敦煌に到達し、王道士から文書を買い入れた。 |
英、仏、日に前後してロシア、ドイツ、米国の探検隊、研究者も莫高窟から文物を持ち帰った。 1894年 日清戦争 1900年 義和団事件・八カ国連合軍が北京入城 蔵経洞発見 1904年 日露戦争 1907年 スタイン敦煌へ 1908年 ペリオ敦煌へ 1911年 辛亥(しんがい)革命 大谷探検隊敦煌へ 辛亥革命によって清朝は崩壊した。帝国主義の時代の真っただなかで老大国・清は倒れ、国土を蚕食され、文物も奪われた。 いま、莫高窟の500近い窟の外部はしっかりと防護壁に守られ、参観者のための通路と手すりも設けられている。スタインたちが訪れたころは多くの窟が剥(む)き出しだったという 。 敦煌から持ち去られた文物はどうしているのだろう。私たちは敦煌のはるか西、ロンドンにまで足を伸ばした。 (注)◆は「たけかんむり」に「録」 |