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花摘泰克
写真 飛田信彦

黄塵(こうじん)にかすむ大雁塔(右)の背後に夕陽が落ちる。周辺には近代的な高層建築、高級住宅が出現している
 
 斜塔はイタリアのピサだけの専売特許ではないことを、中国に来て知った。陝西省の省都西安市の城壁を南に出て車を走らせるうち、前方にしだいにそびえ立ってきた高い塔が、わずかながら左にかしいでいるのである。

 玄奘(げんじょう)三蔵法師ゆかりの大雁(だいがん)塔だ。

 西安が、シルクロードの繁栄を背景に栄えた長安と呼ばれていた唐の時代。玄奘がインドから持ち帰った膨大な仏典を収め、サンスクリット語から漢訳するための場として六五二年に建てられた。

 現在も残る明代の城壁から約四キロ南にある。七層、高さは64メートル。

 大雁塔とは別に小雁塔もある。二つながら玄奘が建てたという言い伝えがある。由来はこうだ。

 経典を求めて西域を旅していた玄奘はある日、道に迷った。困りはてた末、経を三度唱えると、空に長い鳴き声が響き、大小二羽の雁が目の前に降り立った。玄奘は言った。

  「水も食べ物も尽き、死を待つばかり。どうかお導きくだされば、長安に戻ったのちお礼に塔を建てます」
 
 すると不思議にも、二羽の雁は鳴きかわしながら舞い上がり、砂漠の迷路から玄奘を救い出した。長安に戻った玄奘は約束通り二つの塔を建てた−。
(甘粛省人民出版社編「シルクロード伝説」から)

 玄奘が超人的な意志と体力をもって17年間に及ぶ西域の旅を終えて長安に戻ったのは645年。日本ではちょうど中大兄皇子(のちの天智天皇)が蘇我氏を滅ぼし、中央集権強化の道を歩み始めた年にあたる。

 当時、朝鮮半島の支配をめぐる戦争に介入していた東海の小国、日本は大唐帝国の力を恐れに恐れていた。

  だが一方で、その脅威から身を守る意味でも国内制度整備のために唐の政治制度、文化の摂取に懸命にならざるを得なかった。阿倍仲麻呂、吉備真備、空海ら歴史に名を残す人々が遣唐使として海を渡ることになる。

 長安は、はるかローマまで15000キロに及ぶシルクロードの起点であり終着点であった。しかし、シルクロードを経て西方から伝えられた有形無形の宝は大唐の都に春を吹きこんだばかりでなく、さらに海を越えた島国にも深い恩恵をもたらした。

 日本人がシルクロードにあこがれるのも、遠い祖先の血がそうさせるのかもしれない 。

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