【第1部 誕生(6)】
細胞内の異生物「ミトコンドリア」
宿主を襲う「遺伝子異常」
私たちの細胞の中には外部から入ってきたバクテリア(細菌)が住みついている。ミトコンドリアと呼ばれ、いま
では細胞のエネルギー生産を担当する一小器官となっているが、細胞本体とは別の遺伝子を持つ。映画にもな
った小説「パラサイト・イヴ」は、このミトコンドリアが増殖し、反乱を起こすというストーリーだった。(「生命」取材
班)
≪壮絶なドラマ≫
ミトコンドリアは細胞内の細胞質という部分にある直径約〇・五マイクロメートル(一万分の五ミリ)、長さ約一マ
イクロメートルの米粒のような楕円(だえん)体で、生物が呼吸によって取り入れた酸素を使い、物質を酸化してエ
ネルギーを生み出す。バクテリアと同じように輪になった遺伝子(DNA=デオキシリボ核酸)を持ち、自分で分裂
して増える。
米ボストン大学のリー・マーグリス博士が一九七〇年、「遺伝子の収納庫としての核をもつ生物(真核生物)の
細胞内にバクテリアが住みつき共生した」という「細胞内共生説」を提唱し、共生は約二十億年前に起きたという
説がほぼ認められている。
それにしても、異生物である細菌を細胞がどうして受け入れたのだろう。東京大学大学院理学研究科の黒岩
常祥教授は「入ってきたバクテリアが独立して生存するための遺伝子を宿主である細胞が奪い、ミトコンドリアに
変えてしまった」という。いわば“収奪的共生”である。
それもなまはんかな収奪ではなく、自律的に生きるのに必要な遺伝子の八〇−九〇%を一気に抜き取ったと
いう。しかも、精子の細胞のミトコンドリアは受精のさいに完全に消滅し、卵子のミトコンドリアしか子孫に伝わら
ないので、「宿主はミトコンドリアが新たな遺伝子を持ち、繁栄させることを防いでいる」と黒岩教授は説明する。
ミトコンドリアの分裂時には、分かれる部分を囲むようなリングが生じる。最も原始的な紅藻を使い、世界で初
めてこのリングを見つけたのも黒岩教授だった。このリングは宿主の核がミトコンドリアに勝手な増殖をさせない
ようにしている証拠ではないかと考えられており、リングを調節する遺伝子を突き止めれば、宿主とミトコンドリア
の関係が明らかになるだろうと黒岩教授は予測する。
≪平和的共生≫
これに対し日本医科大学老人病研究所の太田成男教授は「ミトコンドリアは宿主と対等の形で共生するように
なったのではないか」と“対等合併説”をとる。太田教授は映画の「パラサイト・イヴ」の科学的な考証を受け持っ
たことでも知られ、近く「パラサイト・イヴ」の原作者の瀬名秀明氏と共著で「ミトコンドリアと生きる」を出版する。
太田教授によると、細胞内に核を持つ真核生物が誕生したさい、寄生して共生生活をはじめたバクテリアの遺
伝子が自分の細胞から出て、宿主の核に向かって大移動を行い、宿主の遺伝子と融合した。その間に、バクテ
リアが変化しミトコンドリアに変わった。このとき、エネルギー生産の結果生じる有害な活性酸素のあつかいはミ
トコンドリアにまかせ、遺伝情報の伝承など他の仕事は宿主の核が行うという役割分担が成立したというのだ。
いずれにしても、進化する過程で二つの生命がドッキングする時期があり、その痕跡は四十億年を経た私たち
の体の内部で息づいている。
≪ミトコンドリア病≫
生後すぐに運動障害やけいれんが起きる。疲れやすい。高齢になるとともに、アルツハイマーなど痴ほう症状
が出る−。こうした病気の原因のひとつに、ミトコンドリア遺伝子の異常があることが明らかになってきた。一九
九〇年ごろから病態が明確になった「ミトコンドリア病」である。
ミトコンドリアは全身のエネルギーの供給源であるため、それがうまく働かなくなることで、エネルギーを多量に
必要とする中枢神経、心臓、骨格筋などが次第に衰えてくるのだ。
太田教授は「全国の患者は約七百人。まだ一般に広く知られておらず、診断で原因不明と見逃される可能性
もある」と説明する。
患者の家族らは二年前、情報交換の場として「ミトコンドリア病患者・家族の会」(杉野原郁哉代表)を設立し
た。メンバーは現在、四十五家族。杉野原さんは「ミトコンドリア病は一人として、同じ症状にならないので、現在
のような症状に合わせた診療科では、十分に診てもらえない」と悩みを話す。ミトコンドリア病の治療は、二十一
世紀の課題といえる。