仏教では火とは我々の心を焼き付くす物と考え、
これを三毒ー貪り、怒り、痴かさにたとえる。
涅槃の境地とは三毒の火が消えた状態なのである。
このような涅槃の境地に入るとはどのようなことなのか。
苦の原因は愛欲であるといったが、三毒もまた愛欲にもとづくこと
明らかである。
無常である全ての物は必然的に生じ滅し死んでゆくにも拘わらず
我々が滅や死の来ないことを希求する欲望、それがすなわち愛である。
簡単にいえば固定不変化を希求するのだ。固定不変化を希求すれば、
自我もまた固定的実体化される。三法印の第二に諸法無我をいったのは、
自我もまた固定的にあるのではなく、それはまた無常なものにすぎない
ことを明らかにするためであった。現実はどこまでも無常であるのに、
固定不変化を希求することはそれ自身矛盾といわねばならない。
絶対にできない事なのだ。愛の希求が実現しないことが苦であるから、
苦の滅の境地である涅槃においては愛の希求そのものを放てきしなければ
ならなくなる。それによって愛にもとずいて起こる三毒も消滅すること
になる。
愛の制御、克服が苦の滅をきたすが、苦の滅はけっして人生そのものの
否定ではない。我々は愛にもとづいている限り、その生活は他律的となり、
不自由な物となる。束縛された人生となる。
しかし愛にもとづく三毒の束縛を離れるならば、
かえってその生活は自律的となり、自主的となり、
真に自由なものとなる。
苦の滅とか、愛の制御克服とか言うと、欲望を全面的に否定して、
人生そのものの積極的意義すら否定するように考えるが、
仏教のめざすものはそうではないのだ。欲望を全面的になくするには
しぬしかないし、生きているうちは生きんとする欲望はかならずある
ものである。
滅諦で説く涅槃は、欲望の否定ではなく、欲望の転回を意味する。
愛欲を断ずるとは愛欲を転ずることである。