宗教的意識においては我々は心身脱落して絶対無の意識に合一するものである。
そこには真もなければ、偽もなく、善もなければ、悪もない。
宗教的価値というのは価値否定の価値である。

真に絶対無の意識に透徹した時、そこに我もなければ神もない。
而もそれは絶対無なるが故に、山は是山、水は是水、有るものが、
有るがままに有るのである。

ーー 一般者の自覚的体型

心身脱落というと心身がすかっとすると言うようなことではない。
心と身が二つであると分別されているのが、そのまま一つになることだ。
心と身、自己と自然を二つに分けてみること自体、われわれの分別の
はからいにすぎぬ。
心身脱落すると言うことは自己の本文を見たことなのだ。
自己の本文を見るとことは 自己そのものを否定することに他ならぬ。

絶対無の立場にたつならば、そこには我もなく神もないのだ。
山はこれ山、水はこれ水として有るものが有るように有るのが、
空であり、仏の相である。

自分が無私になり、無心になれば真実が見えてくる。
なぜならば自己の心が絶対無となるからだ。
虚空になり切るといっても良い。
虚空においてはずべてのものがそのまま映ずるのである。
それはただうつすというべきでもあろう。