この様な一般の人々の見方は真実ではないと打ち明け、それを取り除くのが仏教の見方である。
すべてのものに固定的な実体、自性がないことを「空」という。
小乗仏教ではすべての物を75法に分類し、それを実体視し、
実際には存在しないものを、存在するかのような見方をするのであるが,大乗仏教の『般若経』
はこの見方をどこまでも否定しょうとした。『般若経』で説く空とは常にこの実体,自性を
否定することを明らかにしたのであった。
空とはすべてのものが実体を有し,相対立し,
固定的に存在するという見方,考え方の絶対否定である。
概念に対応する実在物を否定することである。
先に述べた虚空のとらえ方にしても,虚空とは目に見えないもの,掴むことができないものという概念でとらえられた虚空を,一刀両断の元にたたき破る禅的経験であるのだ。
大乗教典の『般若経』の教えを組織したのが竜樹の般若皆空の哲学である。
竜樹の『中論』によると,縁起しているものを空と説く。
空とは縁起の別名に外ならぬ。
縁起とは原始仏教以来説かれる仏教の根本強説であり,「縁りて起こっていること」の意味である。
「縁りて起こる」という生起の意味よりも,縁起している一切の物には自性がないことを意味する。
縁起とは実体,自性の否定に外ならぬ。
縁起している物は空であるといっても,空という物が存在しているのではない。
空という物は「仮説」であることを竜寿は強調する。
空というと空という存在があると考えるのが我々の思惟の必然であるから,
縁起を不滅,不生,不常,不一,不異,不来,不去であるというが,
これは我々が考える生滅,断常,一異,去来のすべての思考を否定するのが,縁起である。
我々は生でなければ滅,断でなければ常というように,
どうしても対立的,分析的に物を捉え易い。
このように有か無かというような対立的思考,分析的思考をどこまでも排除してやまないのが,
竜樹の空の思想。
大乗仏教の立場からいえば,般若波羅密,すなわち空によって理解しなければならない。
すべての実体,自性を否定する見方にたてば,あらゆる物が縁起している存在として捉えられ,
縁起の理法が見えると,そこに真の智慧が現れる。その智慧は一切の差別的見方や,分析的見方を否定した
無差別な智慧であり,これを仏教では根本無分別智,または般若波羅密と称する。
般若波羅密を簡単に般若と呼び,この般若とは空と同義。
苦,集,滅,道ーーー四聖諦もまた四つの般若。
瞋りという概念を組み立てたにすぎないのだ。瞋りの概念を作ったため,
そこに瞋りという実体があるように錯覚するに至る。
瞋りは空相に外ならぬ。
不生不滅というもの,空なるものが存在するのではない。
空なるものが存在すると考えることも,また迷いに他ならない。
空もまた絶対に否定されねばならぬ。