◆生命ビッグバン 〈脳を探る〉(10)

「睡眠ホルモン」

【「睡眠の謎」解明に糸口】

眠り誘う物質約30種類が存在

 人生の三分の一を占める睡眠。健康の維持や疲労回復に欠かせない大切な営みだが、その目的や役割は今も
謎に包まれている。人はなぜ眠るのか、眠れないのか。最新の脳科学によって、眠りのメカニズムの解明にようやく
糸口が見えてきた。(中曽根聖子)

≪眠る理由≫

 人は夜になると眠くなり、朝になると自然に目が覚める。睡眠って一体何だろう。

 「一言でいえば、睡眠の目的や役割はまだよくわかっていない」

 睡眠研究の世界的な権威、大阪バイオサイエンス研究所(大阪府吹田市)の早石修名誉所長はあっさりという。

 眠りの役割は諸説あるが、大脳がオーバーヒートしないように神経細胞を休ませてやる疲労回復説が一般的だ。
眠りには、体も脳も眠った状態のノンレム睡眠と、体は眠っているが脳は活動しているレム睡眠の二種類がある。
深いノンレム睡眠時に成長ホルモンが大量に分泌されるため、体の修復や成長に必要という説も。また、眠らない
とかぜなど病気にかかりやすくなることから、睡眠が免疫機構を増強させるという説もある。

≪あんこと皮≫

 では、どのような仕組みで眠くなるのだろうか。睡眠調節の鍵を握る「睡眠物質」として、いま世界で最も注目され
ているのが早石さんらの研究グループが発見したプロスタグランジンD2(PGD2)だ。

 睡眠物質とは、眠らないでいるときに脳内で作られ眠りを誘発する物質の総称で、その候補は現在までに約三十
種類も見つかっている。

 PGD2は、体内で分泌されるホルモンの一種として古くから知られていたが、早石さんらがこれをネズミの脳に注
射すると、ネズミはすやすやと眠ってしまうことを発見した。今からほぼ二十年も前のことだ。

 早石さんらは、夜間目を覚まして動きまわるネズミの脳に管を通しPGD2を一分間に約二〇〇ピコグラム(ピコは
一兆分の一)連続注入する実験を行った。するとネズミの脳波や心拍数、体温などは自然の眠りと全く区別がつか
ない状態を示した。逆に、脳のなかでPGD2を作る酵素を働かないようにすると、ネズミは不眠になる。一連の研究
でPGD2が眠りを引き起こす“睡眠ホルモン”のような物質であることを突き止めたのだ。

 その後の研究で、PGD2を作る酵素は、脳のなかではなく脳を包む膜に存在するという意外な事実もわかった。

 早石さんは脳をまんじゅうに例え、「脳をとりまく膜組織は脳を保護するのが主な役目とされていたが、睡眠では、
まんじゅうのあんこよりも皮の方が睡眠調節の鍵を握る主役だった。いわば皮が眠らせる脳で、あんこは眠る脳」と
説明する。

 さらに脳の膜で分泌された酵素は脳脊髄(せきずい)液のなかを循環しながらPGD2を作り、これが脳の下部にあ
る前脳基底部に作用すると睡眠を起こす信号を発信。その信号が、脳の内部にある睡眠中枢に伝えられ脳全体が
眠ることも明らかになってきた。

 もちろん眠りという生理現象は、一つの物質や遺伝子で説明できるほど単純ではない。だがPGD2は、複雑で巧
妙な睡眠の謎を解く一つの突破口になりそうだ。

≪脳の“関所”≫

 こうした睡眠物質を睡眠薬として使う研究も盛んだ。睡眠薬はこれまで、効き目も強いが毒性もある第一世代、現
在主に使われるベンゾジアゼピン系など第二世代とあるが、いずれも人工的に合成された化合物なので副作用を
伴う。「体内に存在する睡眠物質を使えば、副作用がなく自然の眠りをもたらす第三世代の睡眠薬の開発も夢では
ない」と早石さん。

 医薬品開発に向けた現在の最大の課題は、脳の“関所”となっている脳血液関門だ。薬が作用するためには、こ
こを通過して脳だけに局所的に働く薬剤を開発する必要がある。今夜も眠い目をこすりながら、世界中の研究者が
しのぎを削っている。

≪不眠の悩み5人に1人≫

 昨年十一月、大阪市東成区の府立健康科学センターに開設された日本初の“睡眠ドック”。開設直後から、眠り
に悩む人から問い合わせや相談が殺到した。

 「夜眠れず昼夜が逆転して登校できない」「病院から処方された睡眠薬を飲み続けていいのか」「どこの病院に行
けばいいのかわからない」といった電話が、遠く東北や九州からも寄せられる。センターを訪れた五十歳代の男性
会社員は「夜のいびきがひどく、突然止まることがあると妻に言われて心配になった」と真剣な表情で訴えた。

 ドックでは、問診票で問題を把握、採血や検尿など通常の検査のほか、顔の骨格のX線撮影やのどの奥の写真
撮影、腕時計のような測定器をつけ、寝ている間の血液の酸素飽和度を測定。あごの形や血中の酸素の値の変動
から「睡眠時無呼吸症候群(SAS)」などを発見できる。

 SASは、睡眠中にのどの奥がふさがって呼吸障害が起こる病気で、中高年の肥満男性に多い。呼吸が止まるた
びに覚醒(かくせい)反応が起こるので眠りが浅く、昼間眠気で仕事に差し支えることもある。

 この男性はドックで受診し、一時間に十回から二十回の無呼吸があることがわかった。ドックでは、診断結果によ
って、症状に見合った病院を紹介するほか、快適な睡眠がとれるよう生活指導も行っている。

 現代社会では夜間の光や騒音、夜勤などライフスタイルの夜型化などにより、睡眠異常や障害に悩む人が急増。
病院の睡眠外来は常に予約でいっぱいという状況だ。数年前に実施された調査では、実に日本人の五人に一人
が不眠に悩むという結果も出た。

 センターの立花直子医長は「健康な生活には食事・運動・睡眠が欠かせないが、日本では眠りがないがしろにさ
れてきた。相当数の患者が存在するのに、睡眠医学という分野が確立しておらず、患者のニーズに対応できていな
かった」と指摘する。

 立花医長は米スタンフォード大などで睡眠障害について学び、米睡眠医学会が認定する日本人初の国際睡眠認
定医でもある。五百を超える睡眠障害専門センターなど医療体制を整備してきた米国の例を挙げながら「もっと睡
眠に対する関心を深め、生活習慣を見直すなど健康増進に役立ててほしい」と、睡眠の重要性を訴えている。

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 【レムとノンレム】

 睡眠には浅い眠りのレム睡眠と深い眠りのノンレム睡眠の2種類があり、この1組が約90分の周期で繰り返され
る。レム睡眠は覚醒時と似たような脳波を示し、急速な眼球運動を伴う。この時に夢を見ることが多い。ノンレム睡
眠は、深さによって4段階に区別され、眠りが深くなるほどゆっくりした脳波が現れる。

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 【ホットライン Q&A】

 Q 私の子供は自閉症です。脳機能の損傷が自閉症の引き金になるようなケースがあると聞きましたが、脳機能
を修復する形での治療は進んでいるのでしょうか(奈良県 K)

 A 自閉症は、児童の人口1万人に対し、3、4人が発症するといわれ、男児に多い。脳機能の障害との関係につ
いては「可能性」があるという段階にとどまっています。脳機能と関連する一部の病気との関連が指摘されています
が、はっきりと医学的に証明されたわけではありません。従って、現在の治療は投薬と、精神医学的な教育が中心
になっています。

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