★ロシアンルーレット
ハバロフスクで聞いた小話をひとつ。 オンボロ飛行機が辛うじて飛び立ち、シベリアの上空に差し掛かった。するとにわかに天候が悪化、激しい雨が降り始めた。時折、雷も鳴り響き、機体は激しく揺れる。 心配になった乗客はスチュワルデッサ(スチュワーデス)に尋ねた。 「こんなに揺れて大丈夫かい」 「心配ありません。機長がウオツカで酔っぱらっただけですから」 「あぁそうかい。できたら俺も一杯やって安心したいんだがね」 それからしばらくして、スチュワルデッサと乾杯を繰り返していた機長がとうとう酔いつぶれて寝てしまった。 飛行機は、若い副操縦士が、一人で操っていた。 「どうしよう。ぼくはまだ一人で着陸したことがないんだ」 副操縦士は、思いあまってスチュワルデッサに相談した。 「大丈夫よ。ウオツカさえ飲めば。あなた以外はもうみんな、怖い物なしよ」。そういうと、スチュワルデッサもウオツカを手渡して酔いつぶれてしまった。 機内で素面でいるのは副操縦士ひとりとなった。彼は大急ぎでボトルに残っていたウオツカをあおったとさ。 ![]() ロシア機の墜落事故は、確かに少なくはないようだ。 タス通信によるとロシアでは93年、11件もの航空機機事故があった。月に平均1機の計算だ。貨物輸送機や軍用機、ヘリコプターなども含まれているのだろう。在任中も、ヘリが墜落したという話をよく聞いた。西側の新聞には載らないだけだ。 サハリンから択捉島へ行く飛行艇は、92年だけで3回も不時着水し、けが人まででている。それどころか、赴任早々に発生した水晶島の国境警備隊兵士の反乱(別の章で紹介します)のように、味方同士の打ち合いで落ちたヘリすらあった。それだけ当時の混乱した経済事情が、士気を低め、安全管理にも影響を及ぼしていたのではと思う。 また、94年にはエアバス社製の最新鋭機ですら墜落したことがあった。「うそーっ、あの飛行機が…」と、絶句した。老朽化したロシア製の飛行機ではなかった分、ショックが大きかった。何に乗っても安心はできなくなってしまった。 「西側先進国の飛行機ですらそうなのか」 だが、さらに驚いたのは、ロシア紙の報道によると墜落の原因はなんとパイロットが自分の子供に操縦させていたからだという。考えられない無秩序ぶりだ。当時、米国は、自国の公務員がロシアの飛行機に乗ることを認めないという措置を取っていたが、こういうことがあるとそれもうなずける。幸い、近年はロシアの旅客機事故をついぞ耳にしないのが救いだが。 ところで、石油メジャーに至っては、チャーターの小型ジェットを日本経由で往来させており、駐在員も3週間交代という厚遇ぶりだった。アメリカの大企業は、過保護なほどに社員を大事にしているのだろうか。あるいは訴訟社会のなせる業で、奥さんと何カ月も離して勤務させようものなら離婚騒ぎになるからだろうか。 思わず「ロシアの飛行機には乗らないのですか?」と尋ねたら、彼らはなぞの微笑みを残して機内へと消えていった。 一方、サハリン駐在日本人商社員の方たちは「いつ落ちるか、これがロシアンルーレットですよ」。「俺なんか何度もうだめだと思ったか…」と、笑いながら話す人が多かった。笑って話せるのは、それでもまさか自分が事故に遭うことはないだろうと思いたいからか。あるいは「飛行機事故をびびって商社マンが勤まるか」という闘志の現れだろうか。 思えば、航空先進国のアメリカでも、飛行機事故はけっしてないわけではない。飛ぶものは飛び、落ちるものは落ちるのだ。うちの先輩も言っていた「道新(北海道新聞)の海外駐在記者で飛行機事故に遭った奴はいない」。その通り。ただし、空の事故に遭った社員は、何人もいるのだが。 いずれにせよ、日米ロのビジネスマンが置かれている環境の違いをかいま見たような気がした。 ところで、赴任後まもない94年4月、ユジノ−函館線が就航した。ロシアの飛行機もあれこれ乗ったが、ユジノ−函館線で使われているアントノフ24という機材は、知っている範囲では一番安心して乗っていられたターボプロップのプロペラ機だ。ユジノの助手、ジェーニヤ君のお墨付きがあったせいでもあるが。 さてこのユジノ−函館線、92年11月25日に東京で始まった日ロ航空交渉の初日、開設が大筋でまとまった。自民党筋からいち早く情報をキャッチしたのは、道新函館報道部。その情報をもとに当時、東京支社政経部に所属し、運輸省を担当していた縁で裏付け取材をし、他社に先駆けて報じた。 しかし、この朗報も、道内では明暗を分ける騒ぎとなった。 ロシア極東と北海道を結ぶ国際航空路線は、道の念願だったが、ふたを開けた結果は思惑とは相当違うものだった。新千歳を北のゲートウェーにと位置づけて、国際線をひとつでも多くと願っていた道は、新千歳−ハバロフスク線を最も期待していたのだが、もくろみは大きく狂ってしまったのだ。 また、ユジノ線就航を最も願っていたのは旭川市。ユジノとは姉妹都市の契りを交わし、ユジノ市内には「アサヒカワ通り」という地名があるほか、春ともなれば旭川の使節団が植えた桜が公園で花ほころぶ。てっきり「ユジノ線就航は我が町に」と思っていただけに「なぜなんだ?」と、憤ったのも無理のない話。実際、交渉過程で一時、ロシア側もユジノ−旭川線開設を希望したという。 就航したユジノ−函館線は、オホーツク海を南下し、紋別上空付近で南西に方向を転じ、新千歳を避けて登別付近を経由し、函館へと向かう。単純に考えると、紋別から旭川へと向かう方が距離的にも近く、ユジノ−旭川線に合理性はあった。 一方、ウラジオストクとの路線開設を運動してきた函館市は、予定外のユジノ線開設が飛び込み、がっかりするやらうれしいやら。思わぬ棚ぼたに戸惑っていた。 運輸省は、「国際交渉のプロセスを公開するわけにはいかない」と口にチャックをするばかり。「ユジノ−函館はロシア側の希望」と繰り返す。 しかし、「鉄のカーテン」ならぬ「サクラのカーテン」越しに見え隠れした裏事情には、防衛庁の抵抗があったことは想像に難くない。 ソ連が崩壊したとはいえ、防衛庁はロシアに対する警戒感を捨てきれずにいた。そのため航空自衛隊第二航空師団が駐屯する千歳には、ロシア機を受け入れたくはなかった。ロシア側もこうした事情をにらみ、新千歳線開設をあきらめたのだろう−と、個人的に推測していた。 さらに、日本海には東北から北海道沖にかけて南北に伸びる航空自衛隊の訓練空域が広がっている。このエリアは、ロシア機に限らず民間機の通過は認められていない。新潟付近まで大きく南へ迂回しなければならない次第だ。 当然、新千歳は路線就航の対象外となり、日本海をまたぐウラジオ線、ハバロ線も難しい。そこで浮上するのは、ユジノと旭川、または函館という選択肢だ。 そして次に影響したのは、日本側の航空会社に就航希望が無い中で、複数の路線開設を認めてロシア側にばかり就航させるのは、「外交バランス上も、国内航空産業の保護育成上も好ましくない」という運輸省の意向だった。 ところで、航空交渉に一枚かんでいた外務省が、交渉途中で自民党に「ユジノ−函館線で良いか」と打診していた事実がある。 さてここからは勝手な想像。真偽のほどは保証できないが、かような事情ではなかっただろうか? 当時、自民党の総務会長は、元運輸政務次官の佐藤孝行氏。函館・道南地方を地盤とする佐藤氏が、旭川−ユジノ線の開設を黙って指をくわえて見ていたのだろうか。あるいは、運輸省や外務省がその点を配慮したのではないだろうか。そしてロシア側交渉団も、サハリン州政府の意向はともかく、唯一の選択肢として旭川と函館を天秤にかけてどう思ったのか。最終的には、より東京に近く、歴史的にロシアとの接点も多い函館に市場としての魅力を感じたのではないだろうか。 ただ、航空交渉がまとまった段階では、ロシア側はイリューシン62を運航機材として想定していた。このジェット機もロシアではポピュラーなタイプ。全長53メートル、巡航速度時速900キロで、140人乗り。航続距離が7800キロと長いのが特徴だ。 だが、結果的にアントノフが就航した。 ところで、余談だが、残念ながらわが家族は、ついにユジノ線を利用してきてくれなかった。どうもサハリン到着の日の体験を大げさに話しすぎて、びびらせてしまったらしい。いくら誘っても、「いや」。よほど「ロシアそのものが怖い」と思わせてしまったようだ。函館−ユジノ間はたった2時間だけに、これほど便利な便はないのだが。もっとも妻は、新婚旅行でハワイに行った以外、海外旅行には行きたがらない。「どんなに海外旅行が割安でも、国内旅行の方が気楽で楽しめる」という。 ちなみにロシアの航空会社のパイロットは、ほとんどが軍人出身という。ロシアの飛行機の怖さを煽りすぎたかもしれないが、過酷な気象条件でも任務を果たしてきた人たちだから、操縦技術についてはもっと評価してあげて良いと思う。 話が行ったり来たりして恐縮だが、それにしても旅客機の場合、なぜかパイロットが乗客が座席についてから機内に乗り組む姿を何度も見た。そして降りるときは、パイロットの方が先だった。 そのとき、乗客は拍手をもってパイロットたちを送り出す。「よく無事に俺たちを送り届けてくれました」と、感謝の気持ちを込めて。日本ではちょっと考えられない光景だ。まぁ、人に感謝するというのは悪いことではない。 それよりロシアの航空機でもっとも不思議なのは、どの航空機も意外に座席が小さいことだ。 ハバロフスクからモスクワまで8時間あまりのフライトを体験した際は、ぐったり疲れた。日本人ですら狭いと思うシートに、大柄のロシア人が収まっておとなしくしているのには驚いた。ロシア人は、日本人より我慢強いというのが印象に残った。 そして、ファーストクラスはおろかビジネスクラスもない。すべてエコノミー。しかも全席禁煙というのもソ連時代の名残なのだろう。 禁煙についてはロシア語と英語で表記されており、禁を破る人もいない。20歳でたばこをやめた俺としては、大変助かる。だが、たばこ好きなロシア人が8時間から10時間も禁煙に耐えて狭い座席に座っている姿はいじらしくさえある。 もっとも、ほとんどの男性がトイレでたばこを吸っていた。なぜか、暗黙の了解らしいが、世界中どこの飛行機でも、トイレは禁煙のはずでは。 見えないところではルールが違うというのは、いかにもロシア的な気もしたが、JRでもバスでもなんでも、禁煙席で堂々とたばこを吸う日本の若者よりはほほえましく感じる。 こんな話をすると、助手のジェーニヤ君は「ロシア人は、自分の力ではどうにもならないことに対してはあきらめが良いのです」と分析してくれた。 そうなのだ。体験的に言うと、ロシア人は一般的に忍耐強いというか、あきらめがよいというか、ジタバタしないように見える。ただし、多少なりとも交渉の余地があるか、逆に形勢が有利と思えばその限りではない。大変なタフネゴシェーターになるか、ターミネーターに変身しかねない印象がある。 ある時、店員と大げんかしている女性を見かけた。事情はよくわからなかったが、畳み込むように啖呵を切り、一歩も引かない構えだった。店員が無視しようとするのだが、その女性は大声を上げて周りの人に語りかけ、ますます騒ぎはエスカレートしていた。ロシア人はおおらかではあるが、なかなかにしたたかである。そこまで言い切ると、こちらの思いこみが強すぎるだろうか。 |