序  章

 「お前なぁ、ユジノサハリンスクへ行ってもらうことになったから!
 「はぁ?え〜っ、またぁ〜、冗談でしょ?!

 1993年8月−。その年は、冷夏と言われながらも、東京はひたすら蒸し暑かった。当時の所属は、北海道新聞東京支社政治経済部。タラタラと脂汗やら冷や汗をかきながら、国会や大手町やらをはいずり回ってニュースを追いかけていた。

 湯気の立っているような脳味噌を抱えて支社に上がったものの、突然の話に暑さボケの頭ですらしゃきっとなった。そして、モスクワ駐在経験のある上司、O部長の言葉が前頭葉の中でしばらくこだましていた。

 「サハリンへ」。

 寝耳に水。驚き桃の木山椒の木。あっと驚く為五郎…である(古いなぁ)。地球最後の日が来るとしても、自分が海外で勤務することなど想像もしていなかった。

 もちろん、道新の記者で、ロシアに関心をもたない奴などいるはずもない。まして当時は、ソ連崩壊を経て、エリツィンが大統領に就任し、ロシアはなお激動の中にあった。とはいえ、我が身を振り返れば、とてもロシアに派遣されるチャンスなど想像もしていなかった。

 光栄な話ではあるが、さて困った。ロシア語はまったく勉強したことがない。そもそも大学の第二語学で学んだドイツ語さえ、恥ずかしながら満足に話せない。いや、完璧に忘れたと言っていい。英語だって挨拶程度。自信を持って話せるのは標準語と、北海道弁と関西弁というトホホさである。知っているロシア語といえば、ダモイとダスビダーニャに、ナターシャくらいの恥ずかしさ。

 「役員会でも満場一致だ」
 「おれ、ロシア語知らないスけどいいんですか?」
 「良い!行きたい人より(会社が)行かせたい人だ。ロシア語なんかできなくたっていい。問題は取材力だ」

 殺し文句にぐらっと来た。新聞記者のもっとも大事な素養は、ニュースを発掘してくる取材力。そこを誉められて悪い気がするわけはない。

 「任せてちょんまげだい」と、オヤジギャグのひとつもでそうになる。

 新聞記者は、辞令ひとつでどこへでも赴任する。ある時は稚内、ある時は木古内と何でも有りだ。腰の軽さが肝である。

 「よかったな!おい、飲みに行こう」と、さらに声をかけてくれたのは、海外駐在経験のある先輩、Sさん。

 「頼んでもやらせてもらえないことを、会社の金でできるんだ。人生にこういう機会がそうあるもんじゃないぞ。失敗なんか気にせんで、行って来い。行って来い。結果なんてものはなぁ、後からついてくるんだ」
 「そうすねぇ」−と、ロシア語チンプンカンプンの事を棚に上げて、こちらも調子づく。

 「だめで元々じゃないか。赴任まで半年、頑張ればロシア語もなんとかなるべ。まんざら縁の無い所でもないし…」

 そうだった。サハリンは、以前からそれなりに縁のある島だった。


 −濃紺の海に錨泊したまま、何をしようとしているのか動きを見せぬソ連艦船。米軍側捜索陣が去ったモネロン島(海馬島)沖は、得体の知れない沈黙に包まれていた。大韓機撃墜から2カ月余。北辺の海は、荒れ狂う冬を間近に控えており、真相究明はおろか、遺体もほとんど見つからぬまま、一管本部の捜索も間もなく終幕に。函館海保の巡視船つがる(3,800トン)に同乗、最後のモネロン島海域を見た−
                              1983年9月1日未明に発生した大韓航空機撃墜事件。その渦中は、北海道新聞小樽支社報道部で「海回り」を担当していた。海上保安庁の巡視船に同乗し、旧ソ連・サハリン沖での捜索ぶりを取材した。当時のルポ(83年11月9日付)の書き出しが左の文章だ。

 米ソの冷戦下、一触即発の緊迫感漂う北の海。

 「自分の身の回りに、こんな怖い現実があったんだ」。身震いする思いだった。
 旧ソ連は本道と国境を接する隣国でありながら、どこか理解しがたい政治的、軍事的緊張を感じざる得ない相手。それが、民間航空機の撃墜という痛ましい事件を通じて、より深刻に感じられた。「なぜ普通の人が、旅客機に乗っていただけで撃ち落とされなきゃならないんだ」。どうしようもない疑問が今も消えない。

 さらに小樽ではサハリンから引き揚げてきた人たちや、小樽と結ばれていた旧樺太航路にまつわる取材も手がけている。やはり縁はあるのだ。

                    

 ところで、旧ソ連は文学や音楽などさまざまな分野で、日本にも大きな影響をもたらしている。特に北海道とロシアは、択捉航路を開拓した函館の高田屋嘉兵衛と、日本への通商を求めてきて捕らわれたロシア海軍の艦長・ゴローニンをめぐる逸話などでも知られる通り、歴史的に関わりの多い国だ。

 しかし、長年、日ロ友好の架け橋を築いている人々や水産物、木材などの輸入を通して関わりの深い人々がいる一方で、まだまだなじみの薄い国と感じる人も少なくない。

 道民にとっても隣人ではあるのだが、やはり近くて遠い存在だ。直接交流した経験者も決して多いとは言い難い。確かに旧ソ連の崩壊後、ビザ無し交流や水産物貿易の拡大などで、次第に接触は増えてきたが、一方で摩擦も増えてきている。

 飲酒して浴室で騒ぐ一部ロシア人を嫌って、入浴を拒否する事件まで道内では起きている。また、ロシアを知っているが故に「ロシア人とはつきあいたくない」という人までいる。

 確かに、領土問題を抜きにしても、古くは日露戦争、そして第2次世界大戦に続くシベリア抑留の悲劇や長年続いた旧ソ連の社会主義体制などが、両国間の友好・交流に水を差す大きな壁となっていたのは事実。

 それも否定できない大きな要因だが、過去のことばかりが障害となっているわけではないと思う。むしろ過去のことより、日ロ新時代を迎えて接触・交流が深まる中で、友好と反発が入り交じっているように見える。

                    

 かつて「ソ連は嫌いだが、ロシア人は好きだ」という声をよく聞いた。でも、社会主義体制が崩壊した今でもロシア人に反発する日本人はなぜ絶えないのだろう。

 やっぱりそこには風俗、文化、生活習慣や世界観、背負ってきている歴史的背景の違いを感じる。ただ、遠い親戚なら付き合わなくても済むものの、ロシアはご近所。付き合わない訳にもいかない。だったら、ロシア人の考え方、感じ方、日本人の感性との違いなどを知ったうえで理解し合うことが必要じゃないだろうか。

 それにロシア人を十把ひとからげにして語るのもどうだろう。同じ日本人同士でさえ、「あいつは生真面目すぎて息が詰まる」「彼はお調子ばかりよくて、いいかげんだ」などと相性の合わない相手はいるものだ。増して、異なる自然風土、文化・歴史、社会環境の異なる民族同士だ。

 前述のような経緯で、思いがけず北海道新聞の海外駐在記者(弊社では特派員と呼ばないしきたりになっている)として、1994年3月から翌年2月末まで、新生ロシア共和国サハリン州ユジノサハリンスク市に派遣された私も、ロシア人をどう理解したらよいか、正直言って苦しんだ。そして壁にぶつかったり、悩んだり、憤ったりした。

 しかし、多くのロシア人に助けられ、支えられ、励まされたのも事実。

 そこで考えた。「日本人全員を友達にできないように、すべてのロシア人と仲良くはなれないけど、サハリンでの1年間の体験そのものが、あるがままのロシアを、そしてロシア人を理解する一助になるんじゃないかな」。

 まったく個人的な思いでとして、この5年間に書いては書き直しを繰り返してきた「趣味的な雑文」を、身の程知らずにもインターネットで公開してみようと思い立った。

 ロシアの文豪、チェーホフも訪れ、旅行記を書いた極東の辺境、サハリン。そのサハリンを離れて5年。いまさらの感がないわけではないけれども、新聞紙上では紹介しきれなかった生のサハリン、そしてロシアの人びとを、このリポートでお伝えできればと、願っている。ホームページのノウハウも、ロシア語同様付け焼き刃ではありますが、できるだけ頑張ってみました。

 なお、このリポートは、過去5年に渡って書いては直し、書いては直しを繰り返してきました。そのうちに記憶が実体とずれたり、現状が変化してしまっているケースなど色々あると思います。あくまで個人の「日記」風随筆として受け止めていただければ幸いです。


 最後に、このホームページ製作に協力いただいた先輩と友人に感謝します。
 また、参考資料としてさまざまな著作を拝見しました。この場を借りて感謝したいと思います。それらを含めてロシア・ソビエトに関連する私のささやかな蔵書リストを「おまけ」として第4章にまとめました。これらの著書もそれぞれに興味深いものでした。

 第1章