★夜目遠目傘のうち

 「いやぁロシアの飛行機というからどんなのかと思ったら、意外にきれいなもんだ。これなら安心だ」

 話は遡る。94年2月末、サハリン赴任のため日本を旅発った日のことだ。  新潟空港に到着したアエロフロートのジェット旅客機・ツポレフ154の姿に、わが女房の親父さんはホッと胸をなで下ろした。義父は、「政治経済が混乱して、あそこは危ない状態だから」と心配し、わざわざ北海道から見送りにきてくれたのだった。

 函館−ユジノ線の開通は同年4月。当時、日本からサハリンへの最短ルートは、新潟空港からロシア沿海地方のハバロフスクを経て渡るしかなかった。

 「お父さん、いくら体制が崩壊して、混乱しているロシアといっても、国際線ですし、それなりの飛行機はありますよ。安心してください」

 見送りに来ていた女房や子供たちも心配させまいと、そうフォローした。しかし、実を言えば、半分は自分に言い聞かせていたのだ。

 ロシアは当時、市場経済を導入してまだ3年目。インフレが激しく進み、経済危機に見舞われている真っ最中。マフィアの台頭など、社会的にも激しく揺れていた。単身赴任に踏み切ったのは、子供の教育上の理由もあったが、安全対策のためというのが大きな要因だ。

 大手商社も、サハリンは家族を連れていっては行けない地域に指定している。それだけに送り出す家族の側の不安は大きかった。また、ソ連崩壊後、経済の混乱を反映してか、旅客機の事故が相次いでいたことが、家族の最も危惧する問題となっていた。

 それにしても「夜目 遠目 傘の内」とはよくいったものだ。  ツポレフは、全長53メートル、巡航速度マッハ0・85。3300キロの航続距離を持ち、日本に乗り入れているアエロフロート機の中ではポピュラーなタイプだった。しかし、外観の印象と機内は大違いだった。

 ツギハギのある壁、手塗りの塗装痕、座席自体が欠けている場所もある。

 もちろん考えようによっては、大事に使っているともいえる。ただ、4人組追放直後の時代に乗った中国の国際線や長距離路線の旅客機は、立派な最新の機材だった。改革・開放路線に乗って経済が飛躍する以前にもかかわらずである。それに比べると、やはりロシアの経済混乱はここまできているのかと、驚かざるを得なかった。

 「あの超大国・ソ連の実力が、この程度とは…」と、ショックだったのだ。もともと技術力がないわけではない。問題はやはり、経済力なのだろう。もっとも、最近ではロシア各地で最新の機材が導入されているという。

 話は違うが、モスクワなどロシアの都市の建物の中には、ヨーロッパ調のシックな良いデザインを見かける。でも、近づいて見るとペンキで厚塗りされていて施設はガタガタというものも少なくない。むしろスターリン時代に建てられたゴシック調のビルなどの方がよほどしっかりしている。ウクライナホテルなどは、むしろロシアが世界に誇れる美しい建物ではないだろうか。旧ソ連崩壊後に建築中の建物をいくつか見たが、一様に柱が30センチ角程度の貧弱さで、ちょっとした地震がくれば即崩壊するのではとさえ思えた。建築基準の違いもあるだろうが、社会が安定して、豊かであると言うことは大切なことだ。

 さて膨らむ事故の不安を押さえつつ、こう考えることにした。

 「思うにロシアでは、一部の裕福な人が乗ることよりも、より多くの人に飛行機に乗るチャンスを確保するのが大事なのだろう。飛行機がかつてぜいたくな乗り物という意識の強かった日本と、出発点が違うのだ。ロシアでは文字どおり空の乗り合い自動車、つまりエアバスなのだ」と。

 日本では、航空機=高い料金=豪華で高級な乗り物という認識が強かった。社会主義国家・ソ連では、航空機も大衆的な乗り物なのだという風に理解しようとしたわけだ。ロシアでは、こういう風に現実を肯定的に受け止める包容力を持ち続けることが大切だ。

                         

 ところで、余談だが、アエロフロートの源流を築いたのは、アレクサンドル・クラスノシチョーコフという人物だ。  彼については北海道テレビの上杉一紀氏の著書「ロシアにアメリカを建てた男」(旬報社)などで詳しく紹介されているが、原発事故で有名になったチェルノブイリの出身という。社会民主主義運動に身を投じて、弾圧を逃れるために渡ったアメリカで弁護士の資格を取得。2月革命の後に帰国した。

 ロシア革命後、日本など革命に干渉しようとする勢力に対して、直接対決を避けるために建国された「極東共和国」(1920年−1922年)の初代議長に就任したのをはじめ、全ロシア商工銀行(プロムバンク)の頭取も務めた。1923年には、航空支援事業協会「ドブロリョト」を創設した。これが核となって後に、国内の航空会社をひとまとめにしてアエロフロートに発展したという。

 日本にちなんだエピソードがある。極東共和国時代、進駐した日本軍やロシア帝政派の白軍の追及を逃れるため、彼の妻と子供は日本経由でアメリカへ避難したそうだ。  しかし、有能であればあるほど敵も多いということだろうか。1937年、なぜかでっち上げでの罪で当時の秘密警察(GPU)に逮捕され、粛正されてしまった。スターリン時代の暗黒政治が無ければ、実務家としてソ連を違った方向に発展させられたかもしれないと思う。歴史に「もし」はありえないが、生きていて今日のロシア、そして航空業界を目の当たりにしたらどんな提言をするのだろう。

 確かに最近のロシア航空業界は、分割民営化が進んでいる。国内線でもボーイングやエアバスなどの導入が進んで来ており、事情は相当違ってきている。

 ただ、駐在していた当時は、経済が混乱していた最中でもあり、航空会社の中には「燃料代を払えなくて飛べない」ために間引き運行するなんてこともあった。いったん搭乗しても、飛行機の調子が悪くてほかの機に乗り換えるなんてことも。

 また、「良くこんな古い飛行機が飛ぶもんだ」と、感心せざる得ないこともあった。もっとも飛行機の寿命というのは思いのほか長いそうだ。20年、30年はざらだという。  助手のジェーニャ君は「正直言って私はロシアの飛行機は怖いですよ」という。そのくせあまり怖がっているようには見えず、揺れる機体に驚く俺を見て笑う余裕すらあった。そして「ウオツカ(時にはビールを)を飲みましょうか」とくる。

                         

 彼の場合は「ウオツカを100グラム(ロシアのウオツカはグラム単位で量り売りしてくれる)やりましょうか」というのはほとんど挨拶代わり。まぁ、「気楽にやりましょうよ」と、元気づけてくれたのだろう。神経質で気弱なボスに楽天的な助手というコンビは、ロシア版弥次喜多道中みたいなもんだ。

 サハリン駐在中、よく聞いた言葉は「ニェット」「ニチェボー」と「ナルマーリナ」。ニェットは置くとして、あとの二つはほとんど同意語に等しい。なんでもない、どうってことない、気にしない…と、鷹揚な答えがこっちの心配をよそにしばしば返ってきた。

 助手に言わせると、「ロシア人は、自分の力でどうにもならないことはみんなあきらめるしかないって知っているんです」。あの巨大で、過酷な自然の前では人間はちっぽけな存在だし、ソ連時代は共産党政権とKGBという巨大な権力の前で個人は無力でしかなかっただけに、割り切りが早いのかもしれない。それが生き残る知恵でもある気がする。日本だって長い物には巻かれろ−という言葉がある。

 こんな小話を聞いた。  およそ女性にもてないイワン。40歳を過ぎるまで独身生活が続いた。  だが、幸運にも親戚の世話で美人の若妻をめとることができた。  彼女はナターシャ。親を亡くし、身よりが無くて途方に暮れていたのだった。  うれしくて仕方のないイワンはある日、友人を招待し、自ら家へと案内した。  「あそこにアパートが見えるでしょ。あれが私の住まいですよ」  「あぁ、あの5階建てのだね」  「そう。その5階の真ん中にベランダのある部屋が見えるでしょ。そこが私の部屋です」  「あったあった。あそこだね。おや、女性がベランダに出てきたね」  「あの金髪の彼女が私の妻ですよ」  「へぇーっ、なかなか美人じゃないか」  「そうでしょ。それが私の自慢でね」  「あれっ、若い男がでてきたよ。おや、君の奥さんとキスをし始めたよ」  「いや、私の妻と抱き合って長々とキスしているハンサムなんて、私には見えない。だから私の妻は浮気なんてしていないんだ。君もそう思ってくれ」

 ちょっと日本人にはわかりにくいジョークなのだが、妻の浮気現場をその目で見ながら、若い男には勝てないと知っているイワン。浮気の事実を自分が認めなければ、世の中まるく治まる−あきらめるしかないと知っているロシア人の心理を自嘲気味に皮肉ったパロディーである。