札幌情報産業20年の軌跡 昨日から明日へ


          ●日時 1998年2月5日 10:00〜13:00
          ●会場 札幌パークホテル 3階エメラルド
          ●主催  ザ・ディジタル・ウイーク・サッポロ'98実行委員会
          ●内容          ●講師

 ●WEB速報
 
「20年前にこれからのヒントをさぐろう」

●青木 
 今日は20年前を振り返りながら、その中にこれからの北海道の情報産業をどうするかの「新しいヒント」を探りたい。(ここで青木先生は20年前のマイコン研究会発足当時のメンバーの写真をスライドショーで見せながら)例えば、ハドソンの中本はチリ紙だろうと何だろうと目の前にあるものは何でも食べる奴だった。まず、ざっとこの20年を私なりに振り返ってみたい。

 1976年に北海道マイクロコンピュータ研究会を発足し、μコンピュータという雑誌を創刊した。77年には、ハドソン丸井今井デパートでのマイコン&ハムショップを開設した。78年にはソード、80年にはビー・ユー・ジー、デービーソフトが設立された。81年にはSTVでソードのパソコン言語PIPSのラジオ講座を毎週やっていた。

 1981年には市民マイコン講座を開いたり、札幌商工会議所主催の「地域経済自立」をテーマとする論文コンテストで、自分の書いたマイコン技術を核にした北海道の自立論が最優秀賞を受けた。その後、札幌市は郵政省のテレトピア指定を受け、1986年に財団法人札幌エレクトロニクスセンターが発足した。

 このイベントの立ち上げの核になった北海道CG協会は1987年に設立された。初代会長は自分で、その後テクノバの三浦社長にお願いした。
 88年、札幌テクノパークにマネジメントワーク、ビー・ユー・ジー、デービーソフト、電制が進出、90年には第2テクノパークにテクノバが進出した。85年から青木教授が中心となり、日中電脳学会を設立してコンピュータ技術に関する交流をはじめた。それがきっかけで、86年にはシンヨウ工業大学計算機学院が創立された。90年には日中合弁でシンヨウ4S公司業を設立したが、長くは続かなかった。  
 



 



 
●横幕/私のマイコン20年史

 昭和50年代が私にとってのパソコン創世期だった。昭和51年にYOKOTAC1号という名前のマイコンを自作した。NEC.TK80というマイコンが愛機だった。昭和53年に地元ソードがM100という名前の名機を発売。昭和54年にYOKOTAC2号を制作した。55年にマイコン研究会メンバーで学習用CPUボードを制作した。58年にNEC.PC100が出た。

 平成3年当時郵政省にいたが、仕事場の標準機はOASYSだったのでパソコンを使うと遊んでいると思われた。そこでOASYS DOS/Vを購入した。平成7年にはYOKOTAC3号、平成8年にはYOKOTAC4号としてPentium搭載のDOS/V機を自作した。パソコンにはお金がかかる。青木先生を初めとした「人の輪」があって、はじめて実現したわたしのパソコン生活20年だった。
 
 
 
 


 

●梅沢/マイコン研究会は最先端だった
 
 狸小路七丁目で電気部品の販売店を経営している。ここに20年前に創刊された「初歩のラジオ」という雑誌がある。ラジオ、無線、そしてマイコンに関する情報誌だが、当時札幌のマイコン研究会が制作していた「マイコン」は全国的に見て最先端であったことがこの雑誌を見ていてもよくわかる。当時はマイコン制作に必要な部品はとても高価だったのだが、北大がどんどん買ってくれたものだから制作が可能だった。

 北大には学生だけでなくていろいろな人達が出入りして、集まりやすい雰囲気だった。そうした人達との交流は学生にとってもベンチャーを立ちあげるのに良い環境であった。今、当時を振り返ると、われわれはある産業が勃興するタイミングの良い時代に立ち会えたのだなあと思う。
 


●中本/自分の手で作ることがすべてだ

 今日は何のために20年前を振り返っているのか?そこに何の意味があるのかについて一言。
 札幌のマイコン研究会発足以来の価値ある文化は、何よりも「ゼロから自分の手で作ってきた」ということにある。実体を持った手にとれるものを作ろう、ということを訴えてお先に失礼します(そう言い残して本当に中本さんは退席してまいました)。
 


●若生/振り返ると時代の流れを感じる

 小学生のころから梅沢無線に出入りしていた。大学で青木先生の研究会に入り、大きな流れに押されるように80年に仲間とビー・ユー・ジーを始めた。82年頃、SONYのSMC-70というパソコンのシステムを開発したのが東京の会社との初めての仕事だった。その後、82年頃から大日本印刷の仕事が始まって会社の基礎を築いた。

 好きなことをやりたくてはじめた会社なので、ISDNから画像システムまでコンピュータに関わる様々な仕事をしている。マイコン少年は確かに少なくなったが、今の若い人なりにエネルギーを出せるような環境作りが大切だと思っている。
 


●松井/青木先生はインキュベーター

 シャープMZ80が私とパソコンとの出会いだった。「パソコン買ったなら青木先生のところへ行け」、が当時の北大では常識だったので自分も青木研究室へと足を運んだ。青木先生は「自分の書いた本に誤植を見つけた学生には一件あたり百円払う」と講義で言うものだから、気がついたら先生の思惑どおりに懸命に読みまくってしまっていた。

 在学中にBUGが設立されたり、「東京の大企業だけが就職先ではない、地元に残って働け」という青木先生の教えを受けたせいか、卒業後はコンピュータランド(後にデービーソフトに変名)に勤めながらMZ80に乗せるデービーベーシックを作った。なぜ、ベーシックを作りたかったかというと、ハドソンの中本さんが作ったヒューベーシックを使っていたのだが、それがとても良く出来ていて自分でも作りたくなったからで、中本さんがいなければ今のわたしはありません。
 その後、独立して今のアジェンダを設立した。「宛名職人」などパソコンで使うエンドユーザー向けのアプリケーションの開発、販売をしている。


 

●竹田/会社員からベンチャーを興した15年前

 ダットジャパンの竹田です。15年前に会社を設立した。大卒後は専売公社に入社して商品開発等を担当していたが、テストマーケティング用のソフトを開発してパソコンでデータ処理をしていたのがきっかけで、TheNETという会員400人程のパソコン通信のビジネスを始めた。その後、シャープやロータスからの受託開発の仕事をもらってソフトウエアビジネスに入っていった。
 ハイパープラネット等のCDROMを手がけて、最近は画像データベースなどの開発をしている。単に売れるものを作るのではなく、何を作れば喜んでもらえるかを基本に考えて、夢を持ちつづけることが大切だと思っている。また、マイクロソフトのような会社に対向していくためにも、札幌の会社がネットワークを組んでいくことが必要だ。
 
 


 

●青木
札幌の優位性、劣位性などがあれば指摘して欲しい。

●横幕
東京は非常にエネルギッシュだが、ギスギスしていて疲れてしまう。北海道のような良い環境でじっくりと研究開発に打ち込むのは時代の流れに合っているし、特に情報関連分野は適している。
●松井
札幌はソフトを作るのに住環境、人材とも適している。札幌で作って東京で売る、これが良いパターン。

●青木
最近の新入社員や学生のベンチャースピリットはどうか?
●梅沢
最近の子どもはかつてのラジオ少年と違い、じっくりと自分で作るというようなことはしない。しかし、それは子どもが悪いからではなくて、そうした環境を提供しない大人が悪いのかもしれない。
●若生
自分はパソコンが好きだったのではなくて、プラモでも彫刻でも「モノ」を作るのが好きだった。「モノ」を作ることそのものを今の子どもたちはしなくなっているのだと思う。
●松井
ソフトを自分で作ったりしているのは結構いるが、活躍する場というかネットの中にだけいて、表に出てこなかったりするのではないだろうか。

●青木
みなさん、最後にこれからの抱負を。
若生
時代のエネルギーでここまでやってきたBUGだが、創業期を過ぎて発展期に入っているのだと認識している。また、地域に対しても貢献出来るようになっていきたい。
●梅沢
またいつか、ラジオ少年のような「モノ」を作ろうとする子どもたちが、うちのお店に帰ってきてくれることを夢見ている。子どもに「モノ」づくりの楽しさを伝えることを、時間はかかるだろうがじっくりと続けていきたい。
●竹田
アメリカに行くたびに、どうしてこんなにいろいろなアプリケーションやソフトエンジンを次々と作る連中が出てくるのだろうかと驚かされる。しかし、札幌でもそうした状況を作り出せるはずだ。
●松井
情報関連分野はどこにビジネスチャンスがあるのか先が読みにくくなっている。北海道は人材も育っており、しかも人間関係が密接なので何かが生まれる可能性は大きいと思うし、がんばっていきたい。
●横幕
郵政省の外郭団体の通信・放送機構(TAO)では情報通信関連のベンチャー事業に対して支援事業を行っている。半額補助の先進ソフト開発事業、全額補助の共同研究や委託事業などがある。みなさんチャレンジしてください。
 
 
 
 
 




●青木

 新しいものごとが息吹いてくる時というのは、その潜伏期間というものが前提としてある。20年前にやっていたことはその息吹く芽を育てることをみんなでやっていたのだと思う。マイコンを使いたい、しかし金がない、だから知恵を使って自分たちで作った。

●データクラフト高橋社長(突然舞台にあげられて)

 北海道情報産業20年の企業系統樹を作ってみた。まとめながら思ったのは二点。ひとつはなんといってもやる気のある人材。そしてもうひとつは「モノづくり」ということ。これからの情報産業はもっと「モノづくり」のスタンスに立って取り組まなければならないだろう。