見えない情報を編集する〜こぼれ落ちた文化の復権


●主催・後援
 財団法人 札幌エレクトロニクスセンター
●内容
映像・音声を含んだデジタル・コンテンツや伝統的肉体パフォーマンスなど、多義的意味を背負った情報群をいかにカテゴライズして正しく生かすかを考察し、そこから生まれる新しい情報文化のかたちと可能性を探る。
●日時
 1998年2月5日 午後3時30分〜
 札幌パークホテル 3F「エメラルド」
●講師又はパネリスト
 コーディネーター:柏木博(武蔵野美術大学教授)
 パネリスト:榎本正樹(文芸評論家)
       津野海太郎(編集者)
       中谷日出(NHK映像デザイナー)
       ほか(2〜3名)

●講師プロフィール

柏木 博

デザイン評論、武蔵野美術大学教授

1946年生まれ。武蔵野美術大学卒業。思想理論を基盤として、インダストリアル・デザインから都市・テクノロジー批評など幅広く論じる。著書「日用品のデザイン思想」(晶文社)、「ユートピアの夢」(未来社)、「デザインの20世紀」(NHK出版)、「家事の政治学」(青土社)、「世紀末未来都市」(ジャストシステム)、「芸術の複製技術時代」(岩波書店)ほか。

榎本正樹

現代日本文学批評、東放学園専門学校、青山学院女子短期大学非常勤講師。

1962年生まれ。専修大学大学院文学研究科後期博士課程修了。日本近代文学会会員。現代文学会会員。専門は大江健三郎を軸とした1980年代以降の現代日本作家・作品研究。また、文学の周辺メディアや同時代の文化状況を射程に入れた幅広い研究・評論・著述活動を行う。小説のメディア性とインターネットにおける文学表現の可能性の追求が目下のテーマ。著書に「野田秀樹と高橋留美子」(渓流社)、「電子文学論」(渓流社)、「大江健三郎の80年代」(渓流社)、ほか。

津野海太郎

編集者、「本とコンピュータ」編集長。

1938年生まれ。早稲田大学文学部卒業。晶文社取締役。小学生時代、ガリ版による新聞を発行して以来の机上パブリッシャー。出版社での単行本づくりだけではなく、雑誌、ミニコミ誌、DTP新聞など様々な形で編集に携わってきた。電子メディアとしての出版を常に考えた論考を展開している。著書に「悲劇の批判」(晶文社)、「小さなメディアの必要」(晶文社)、「歩く動物」(リブロポート)、「本とコンピュータ」(晶文社)、「コンピュータ文化の使い方」(思想の科学社)、「本はどのように消えてゆくのか」(晶文社)、他。

中谷日出

映像デザイン、岐阜県国際情報科学芸術アカデミー講師、NHK映像デザイナー。

1955年生まれ。東京芸術大学大学院修了。(社)日本グラフィックデザイナー協会情報化会員。通産省マルチメディアコンテンツ振興会、マルチメディアグランプリ審査員。(社)日本舞台テレビ美術家協会会員。BDA(ブロードキャストデザイナーアソシエイト)インターナショナル会員。通産省産業デザイン振興会、Gマーク選定審査委員。NHKスペシャルをはじめ子供番組等のアートディレクションを担当した後、NHKCIをプランニングし、ロゴマークをデザイン、以後BSスポットCF、HI-VISIONスポットCFの年間企画のプランニングおよび映像監督を務める。


●WEB再録
No.39 98年02月05日 15時55分
  
●柏木 
  
情報ってなんだろうという議論は、歴史的に見てもこれまで何度か持ち上がってきたと思います。例えば18世紀の啓蒙主義の時代に、パリに巨大な図書館の中で米粒のような人間が検索しているというイメージを描いた人がいます。逆に、膨大な情報のすべてを扱うことはできないのだから聖書だけあればいいという考え方もありました。これは現代でも同様な問題意識があります。また、情報アクセスに関する平等性とどのように情報を検索して使えるものにするのか問題も現代と共通性があります。 
まずはじめに、情報全般について、それぞれの立場で自己紹介をかねてお話いただければと思います。

No.40 98年02月05日 15時59分
  
●榎本 
  
まず、新しい情報と文化の体系を考えるヒントとして、CDROM作品のRIVENを紹介したいと思います。これは島々を探検しながら情報を探索していくものですが、その目的は提示されないまま始まります。このゲームを情報という観点から見ると、非直線的なストーリー、提示される情報の多様性、ミニマムのインターフェースの3つの特徴があります。これは現代の情報の問題をひも解く鍵となるのではないかと考えています。
 
No.41 98年02月05日 16時08分
  
●津野 
  
私はかつて黒テントで演劇をしていて、アングラ演劇を初めて北海道に持ち込んだ者です。今は雑誌の編集をしていますが、雑誌と演劇はある面で共通点があると思います。雑誌も演劇も、個々のものを生かしながら組み合わせて編集するという行為であると考えられます。最近では個人がインターネットを使って様々な情報を編集しているといえます。
 
No.42 98年02月05日 16時17分
  
●中谷 
  
私は映像デザインという仕事をしています。例えば長野オリンピックの国名を表示する映像を作っていますが、文字の表示の仕方は単にかっこいいかどうかではなく、1つ1つの文字の性格を表現するためにはどうしたらいいかを考え、607個の表示方法を開発してデータベース化しています。この表現方法は1フレーム単位で表示を変えて、人がどう感じるかという地道な実験の中から出てきたものです。今のCFはもう終わっているという感じで、優しさが感じられるものがほとんどありません。数年前にNHKのCIのための映像を作りましたが、常に人にやさしい表現は何かを意識してものづくりをしています。
 
No.43 98年02月05日 16時29分
  
●黒崎 
  
私は哲学をずっとやっていて、実際に制作にたずさわることはないのですが、コンピュータが氾濫してくると、逆にアナログの写真になつかしさを感じたり、グーテンベルク以前の写本やSP時代の音楽の力強さに引かれています。この退行現象はなんなのかを最近は考えているのですが、例えばカザルスのCDを聴いているといつのまにか別の仕事をしているのに対して、SPやLPで聴くとそれに集中している自分がいます。すべてがデジタル化されて検索可能になることがすべて、情報を活用することにはならないということです。こう考えると、情報にも時間の経過とともに意味がなくなるものと、時間の経過に左右されないものの2種類あるのではないかと思います。天気予報や交通情報はその時を過ぎれば価値が無くなりますが、カザルスの音楽は時間の系列にはそれほど影響されません。情報については、この2つをはっきり区別して議論しなければならないと思います。
 
No.44 98年02月05日 16時34分
  
●手塚 
  
僕はビジュアリストという肩書きで仕事をしていますが、コンピュータに詳しいわけではありません。だからといって嫌いというわけではなく、例えば富士通のテオというCDROMのプロデュースをしたりしています。今日、千歳についた時に、関係者の方に靴の滑り止めというものをいただきました。これは、札幌は雪がふっているから気をつけてください、という情報であり、気づかいやもてなしというとも言えると思います。もてなしは、英語で言えばエンターテイメントになると思います。
 
No.45 98年02月05日 16時43分
  
●柏木 
  
情報を質と量の問題で捉えてみると、量はビット数で表わすことができます。しかし、ある量の情報を受け取り、その直後に、その情報がすべて誤りだという情報がきたとしたら、ビット量としては増えているのか、あるいはすべてなくなってしまうのかを考えています。私はデザイン史というのをやっていますが、予見をにらみながら管理計画するというのがデザインの基本です。70年代に、文化人類学でグリコラージュ(気用人)ということばがありましたが、これは一種の編集と言えると思います。スチュアートブラントはホールアースカタログという本で世界を編集してみせたといえます。また、中世のカバラは、頭の中にすべての知識を入れてしまったエリートだけが情報を編集して活用することができる技術だと思います。この編集というが情報の扱い方について、ちょっと考えてみたいと思います。
 
No.46 98年02月05日 16時48分
  
●津野 
  
本を読む場合、1冊を通読することはなく、章ごとにばらして持ち歩いたり読んだりしています。本というのはもともとパンフレットをあわせたものだったわけですが、それをもう一度ばらして扱って、それを外で読んでいる時に重なった車の音がマッチしたりするわけです。ばらすというのが僕の情報との付き合い方だと思います。
 
No.47 98年02月05日 16時51分
  
●榎本 
  
同じ情報に接していても、自分の状況が変わると情報コンテクスト(文脈)が大きく変化することはみなさんも体験していると思う。モバイルコンピューティングのように、場所に制約されないコミュニケーション形態の普及とともに、情報の文脈が変わるように思う。
 
No.48 98年02月05日 16時55分
  
●中谷 
  
私には番組製作者と記者の2人の上司がいます。記者の話は編集を超えてデザインしていて面白いのですが、番組製作者は知っていることを羅列するだけで、うんちくを語っているようにしか聞こえません。結局、情報をうまく扱うには編集とかデザインするという行為が必要なのかなと考えています。
 
No.49 98年02月05日 17時04分
  
●柏木 
  
子供と話していると、夏休みや昨日のことを話す時に、うまくまとめる子とそうでない子がいることに気づきます。編集能力に違いがあるわけですが、どうも脳の中での情報の扱いが異なるということがわかってきました。
 
No.50 98年02月05日 17時05分
  
●黒崎 
  
読書百遍意自ずから通ずという言葉があります。知識が情報化するという意味ですが、情報速度無限大への欲求が20世紀を動かし、それをインターネットが達成してしまったわけです。それと同時に、速度が速くても価値がなければ無意味になってしまうということに気づいたのではないかと思います。
 
No.51 98年02月05日 17時17分
 
●手塚
 
中谷さんがおっしゃった‘人にやさしい‘ということはこれから非常に大切な学問になっていくと思います。一言で言えば相手の命を気遣うということだと思います。10年くらい前に、富士通研究所と人にやさしいヒューマンインターフェースについての研究から、テオというゲームを作りました。フィンフィンという動物が地球と同じ時間の中で生きていて、アンテナと呼んでいるデバイスを通じてパソコンの前の世界とつながっています。ゲームではないので最終目標はなく、あえて言えば、遊ぶ人がどんどん優しくなってくるものです。これを進めていけば鉄腕アトムになるのですが、そこでは命の尊さを大切にすることが重要です。
 
No.52 98年02月05日 17時22分
 
●柏木
 
クラシック音楽を140くらい集めたCDROMについて議論したことがあるのですが、たくさんあるからといっても、この中で何かをしたいという閉塞感を感じていまう。このテオでは逆に開放感を感じるのですが、これは情報の扱い方に何か関係があるのではないでしょうか?
 
No.53 98年02月05日 17時33分
 
●津野
 
子供のための百科事典を動詞だけで作ろうと企画したことがあります。しかし、日本語の動詞は非常に少ない。明治以降の日本は漢字2文字の名詞にあふれていて、漢字を中心にひらがなでつなぐという使い方になってしまったのですが、それ以前は中心だったはずのひらがなの動詞がこぼれ落ちてしまったわけです。
No.54 98年02月05日 17時38分
 
●柏木
 
今日の議論の中で、情報と知識ははっきりちがうのではないかということがわかりました。知識のスピードを追いかけることが20世紀だったとすれば、もう一度立ち止まって、意味が再生したり変容する扱い方とな何かについて考え直す必要があるのではないでしょうか。