北伝仏教は、石窟寺院を造りながら、その勢力を伸ばしていった。そのやり方は、ちょうど飛び石のように、ある場所に拠点を築き、そこで教勢が定着すると、また新たな地点に布教していくというものだ。

  そうした石窟寺院は、多くの場合、大河の両岸が狭まって段丘崖が迫ってくるような、いわば「渡河点」に造営されており、釈迦が説法したといわれる、インドの霊鷲山の地形に、どれも奇妙に類似しているようだ。

 つまりそこは、自然に人の集まる交通の要衝で、石窟寺院とはその場所にできあがった、一つの「都市」なのだ。そこは在家信徒の拠金によって維持運営され、僧院・僧堂・学寮その他諸機関が完備し参詣人用の宿舎や店舗、食堂も立ち並んでいたに違いない。

  日本でいうならそれは、高野山や永平寺のような、総本山と宿坊のある門前町にあたるだろう。そしてシルクロード沿いでは同時に、宿場町としても機能していたはずだ。

  さてこの石窟寺院の形式は、中国でとだえてしまう。お隣りの韓国には国宝の石窟庵があるものの、都市というには無理がある。そしてわが国では、奈良北郊の岩船寺の磨崖仏群あたりに、その記憶をとどめるのみだ。

  けれどももし、法隆寺の五重塔の内陣をのぞいてみれば、そこに石窟寺院がミニチュアの形でしっかりと残っているのを、われわれは目にすることができるだろう。

  (濱田英作・埼玉女子短大教授)