天田というものをご存じだろうか。匈奴(きょうど)の侵入を防ぐため、漢は長城線を敦煌にまで延ばし、さらに重要拠点には烽火台を点々と築いて国境警備にあたっていた。

  天田とは、そうした烽火台に設けられていた、一種の警戒装置だ。その原理は単純で、烽火台の周囲の砂地を、きれいにならしておく。もし闇にまぎれてだれかが密かに国境線を越えても、朝になればその足跡は一目瞭然(りょうぜん)だ。

  これが天田で、居延という漢代の辺塞(へんさい)の遺跡から出土した当時の文書には、警備兵による天田の定時チェックの記録が残っている。

  話は変わって、冷戦時代の東西ドイツは、「べルリンの壁」に代表される警戒厳重な国境線によって分断されていたが、昔、ある新聞で、そのシステムの図解を見たことがある。

  それによれば、国境線は二重・三重の防壁と溝、それに点々と連なる監視哨によって守られていたが、驚いたことに、そこには砂地の空地が設けられていたのだ。 もちろんそれは、亡命者の足跡を見つけるための施設だ。

  人間の考えることには変わりがないものだと、私はそのとき、つくづく思った。

  ところで、べルリンの壁は、市民を西独ヘ脱出させないように東独が作ったものだが、漢の天田にもまた、漢の統治に耐えかねた民衆が、匈奴側に逃亡するのを監視する目的があったようだ。

  いつの時代も専制国家は嫌われるという、いい証拠かもしれない。

  (濱田英作・埼玉女子短大教授)