西暦紀元2世紀、日本でいえば弥生時代のこと、タリム盆地のオアシス諸国を服従させていた後漢の西域都護、班超(「虎穴に入らずんば虎児を得ず」という名言を残した勇将)は、部下の甘英という者を大秦国へ遣わした。

 この「大秦国」が、当時の西方の超大国、つまりローマ帝国だったことはほぼ疑いないが、このころ、ローマは五賢帝時代の最盛期で、瞬間的にはメソポタミア、つまり今のイラクまで支配しており、班超や甘英が情報を得ていた「大秦国」が、イタリアだったか、エジプトだったか、それともシリアなどの地中海東岸だったのか、残る記録からは、いかようにでも読み取れる。

 また甘英は「大海」に行き当たり、渡る船を探したところ、「安息西界」出身の船乗りに「海が荒れれば往復二年もかかる、それに海の上でホームシックにかかって死ぬ者もいるぞ」と脅されて引き返すのだが、この「大海」がはたして地中海だったのか、それともペルシャ湾岸だったのかも判然としない。

 もっと怪しげなのはこの船乗りで、「安息」はパルティア国(現イラン〜イラク)なのだが、では「安息の西の支配地域」とは、そもいずこのことか。

 これがシリアだったり、アルメニアだったり、パルミュラだったり、ぺトラだったり、それぞれの時期と政治情勢によって短期間に揺れ動くから、ますます始末に悪いのだ。

(濱田英作・埼玉女子短大教授)