唐の都長安に住みついた外国人は、みな中国名を名乗った。しかもそのさい、姓は母国の名をあてた。逆臣安禄山(あんろくざん)は中央アジア出身だから「安」、タラス河畔の戦でイスラム軍に敗れた高仙芝(こうせんし)は高句麗(こうくり)人なので「高」という具合だ。

 ところで、長安に在住した日本人の代表といえば、阿倍仲麻呂だ。彼ははじめ朝臣仲満と称したが、のちに朝(晁)衡(ちょうこう)と改名した。この「衡」には、平衡というように、「たいらにならす」という字義があり、同じ意味を持つ「仲(中)」麻呂を翻訳したものだろう。

 問題なのは、姓の「朝」だ。これはふつう「朝臣」からきたものだとされている。それにしても、他国の人が国名を名字にして、日本人だけがそうしないというのも妙な話だ。

 その理由としては、ひとつには、そのころ国名が、ちょうど倭(わ)から日本へと移行する時期だったことが挙げられるだろう。

 だがもうひとつ私が考えるのは、彼はむしろ、「日出ずる(つまり朝日の)国、日本」だからこそ、「朝」と名乗ったのではないかという可能性だ。

 ところが実は、日出ずるという名を持つ国は、わが日本よりはるかに昔から、東アジアにはもうひとつ存在していた。しかもその国は、まさに「朝」の字そのものを、国名に用いていたのだ。

 だとすれば、阿倍仲麻呂は、なぜその字を姓に選んだのだろうか。

  (濱田英作 埼玉女子短大教授)