シルクロードが張騫(ちょうけん)によって開かれたことは、司馬遷が大宛(だいえん)列伝の冒頭にはっきりと述べているから、まず間違いないだろう。

 とはいうものの、それは中国が西方の国々のことを、はじめて政治的・戦略的に認識たということに過ぎない。張騫はなによりも、対匈奴(きょうど)軍事同盟を結ぶために大月氏に遣わされたのであって、このあたりの事情には、現代のきなくさい印・パ・中三角関係にも通じるものがある。

 だが東西の間には、張騫以外にも、以前にも、人の往来や文化の交流があったはずだ。

 昨年の夏、中国発の報道で、甘粛省のある村の住人は、みな西洋人のような顔で、西に向かって墓を作り、牛を祭る風習を持っており、学者たちは、かれらを古代ローマの遠征軍の子孫だと見なしたという記事があった。

 ローマが中国に遠征したという話はあまり聞かないが、種々の概説書によれば、マケドニアのアレクサンドロス大王が中国に侵入して巧みに追い返されたという伝説があるし、それを示すように、ヒンドゥー・クシュ山中には、ギリシャ軍の末裔(まつえい)だと称する人々の住む隠れ里があるという。

 これなどは、明らかに、張騫以前の話だ。しかし気がついたら、ここまで書いたのは、みな軍事遠征がらみの交流のことばかりだ。われわれは、どこの国の人とも、政治や軍事抜きの、平和なつき合いをしたいものだ。

  (濱田英作 埼玉女子短大教授)