張騫(ちょうけん)は、大月氏と同盟を結んで匈奴(きょうど)を挟撃するために西方への旅に出たが、漢の支配地域を出ていくらもしないうちに、はやくも匈奴の捕虜となってしまった。

 このとき引きすえられた張騫に、匈奴の単于(ぜんう=王)が言ったセリフがふるっている。単于は「もしも匈奴が南越(現在の広東〜ベトナム)と同盟しようとしたら、漢だって妨害するだろう」と言ったのだ。

 つまりここからわかるのは、モンゴル高原を本拠地とする匈奴が、はるか南方のインドシナ地域のことをすでに知っていた、いやそれのみならず、一定の交流を持っていたかもしれないということだ(毛沢東の長征は、まさにこのル−卜の存在を示している)。

 一方、当時の漢の側でも、河西回廊のことを匈奴の右臂(うひ)、遼東から朝鮮半島にかけてを匈奴の左臂とそれぞれ呼んで、匈奴の長く伸ばした両腕で中国がすっぽり包み込まれてしまうようなイメージを抱いていた。つまり、この両腕を断ち切らないことには、中国は締め上げられて滅びてしまうというわけだ。

 張騫のシルクロード行にはこうした背景があり、また匈奴にもこれを妨害すべき理由があったことは、さきに述べたとおりだ。

 それにしても、いまから二千年前、日本でいうなら弥生時代前期に、ユーラシアではすでにこれだけの世界戦略を描いていたのだから恐れ入る。

  (濱田英作 埼玉女子短大教授)