21世紀は明るいか暗いか

 先日東京に行ったとき、たまたまホテルで「20世紀の東京」という番組を見た。映像資料で20世紀の東京を回顧するというものである。

 映像資料だから、実質70年くらいの歴史だが、これを見てつくづく未来を予想することの難しさと、その時々を生きる人間のたくましさを感じた。当時戦争で丸焼けになった東京にいた人間は、誰一人として現在の大都会のありさまを想像することはできなかったに違いない。大変な食糧難や失業の中にあっても、人々は子供を産み、育てた。

 二〇世紀末の人間に、昔のことを思い出して贅沢をするなと説教しても始まらないだろう。確かに、今を生きる人間にも悩むべき問題は多い。しかし、本当に悩み、心配すべき問題と、我慢したり、やり過ごしたりすべき問題との区別が付いていないことが、世紀末の混迷をもたらしているように思える。何が何でも景気を回復させようとして、子供に1人2万円ずつ商品券を配って消費させても、世紀末の悩みは解決しない。

 世紀末を生きる我々に重くたれ込めている不安の元をたどっていけば、種としての人間の存続に対する不安に行き着くといえよう。少子高齢化、環境ホルモン、地球温暖化など長期的な問題はいずれも人間の生存の条件自体を脅かすものである。 それらの変化は緩慢なものだけに、せっぱ詰まらなければ動けない人間にとって、最も苦手なテーマとなる。

 21世紀に人類が生きるためには、人間が動物としての本性を思い出すことが不可欠である。戦後の焼け野原に放り出されれば、人間は否応なく動物の次元に引き戻された。だからこそ、何とか生き延びることもできたのであろう。

 先日、子供の小学校の卒業式を見に行った。子供たちの歌声を聞いて、子供の本質は30年前とそれほど変わってはいないだろうと思った。ただ、この子たちはあまりに人為的な環境で育ちすぎ、生身の人間との関わり方を知らないのかもしれない。

 コンピューター・ゲームに代表される文明から子供たちを引き離すことは不可能にしても、彼らに動物としてのエネルギーを解放する機会を与えてやらなければならない。商品券をばらまくための金があるのならば、その金を使って子供にもっと有意義な体験をさせる工夫をすべきである。

 21世紀を明るくするということは、結局子供の育つ環境を大人がまじめに考えることに尽きるように思う。