競争と公正

 このところ日本長期信用銀行の処理をめぐって議論がかまびすしい。拓銀の破綻以来、経済不安にさいなまれている北海道から見れば、どんな放漫経営の銀行でもつぶせば大きな犠牲が生じるから、拓銀の誤りを繰り返すなという主張をすべきなのだろうか。それとも、拓銀をつぶしたのだから、他の銀行も平等に扱うべきだという主張になるのだろうか。

 私は後者の立場に立ちたい。銀行をつぶすと大変だから公的資金によって支えるべきだという主張は、栓を抜いた風呂桶に水を注ぎ込めと言うようなものである。どれだけ税金をつぎ込めば銀行経営が健全化するか分からない。一時的な健全性の認定があてにならないことは、この春の金融危機管理委員会による各行横並びの資本注入が物語るとおりである。

 北海道は、ビッグバン路線の犠牲者といえるかもしれない。拓銀破綻のせいで健全な企業が巻き添えを食って倒産したのならば、確かに被害者である。しかし、拓銀は誰のせいでもなく、自らの愚行のせいで破綻したのである。また、拓銀からの資金繰りで人為的に支えられていた企業が倒産した。仮に公的資金によって拓銀の寿命を延ばしていたとしても、この銀行が北海道にとって前向きの良い仕事ができていたとは思えない。現在の長銀もおそらく同じような状態であろう。

 いずれ訪れる破綻を少しばかり先送りするのに税金を使うべきではない。市場競争の原理を無条件に当てはめれば、北海道や日本の大半の農村地帯には人間の住む理由はなくなる。その意味では、政策は市場とは異なる公正の論理によって立つべきである。

 しかし、国策や弱者保護の大義名分に安住して、いつの間にか政府からの補助を当然と感じる感覚が北海道に根付いたということもできよう。自分たちのしでかした不始末は自分たちで片づけるという最低限のモラルこそ、今の日本には必要である。不良債権は銀行だけに限らない。苫東問題に代表されるように、公的部門にもおびただしい不良債権が存在する。もちろん、直接の責任者には責任をとってもらわなければならない。不良債権を処理し、最後に預金者や郵便貯金の利用者の財産を守るためには、税金によるしかないであろう。

 我々はよほどの覚悟を決めて、不始末の処理に取り組まなければならない。この当たりの議論については、中前忠『三つの未来』(日本経済新聞社刊)を読むことをおすすめする。