改革は足元から

 先日ある雑誌を読んでいたら、昨今の経済政策論議に関連して、護送船団方式の極致である国立大学の教師が、自らを安全地帯に起きながら護送船団方式を批判することはおかしいという趣旨の文章を見つけた。そんなことを言われたら身も蓋もないと思う一方、もっともだとも感じた。大学にせよマスコミにせよ、他者を批判して「べき論」を展開する。言論機関自身は、大学の終身雇用制や記者クラブ制など日本的美風(?)の中で競争から自由な状態に守られている。これでは、批判や提言にも説得力がなくなる。

 私自身については、それだけ政治に提言を行うのならば自分で政治をすればよいではないかと言われることがしばしばある。しかし、みんなが政界に入ることで問題が解決するわけではない。ただし、自らが所属する場所で特権にあぐらをかいていれば、言行不一致を責められてもしようがない。

 その意味では、私にとっては大学の改革にどう取り組むかが問われている。最も大きな問題としては、教官の任期制導入や国立大学のエージェンシー化というテーマがある。私個人としては、任期制導入には賛成である。ただし、どうせやるならアメリカのように若手の教官だけに任期をつけるのではなく、全教官に適用すべきである。はっきり言えば、仕事をしない老大家がたくさんいる。

 また、大学は必ずしも国立である必要はない。しかし、アメリカで国立大学がなくても高い水準の教育、研究を行っている背景には、民間の側に学問や研究に対する理解があり、税制など国全体の仕組みとしても民間が大学をサポートすることを奨励しているという事情がある。社会が研究、教育を支える体制を持たないままで、大学の経営形態だけをエージェンシー化するというのでは、大学は壊滅するであろう。

 夏休みの一日、今年初めての企画として高校生向けの体験入学を行い、私自身も講義をした。予想外に多くの高校生が集まり、熱心に話を聞いてくれ、また熱心に質問してくれた。高校生たちは、大学に入る前はあれほど大学に大きな期待をもっているのだと思うと、感動した。教師の側は学生の出来の悪さを嘆くことが多いが、意欲を持って入ってきた学生の期待に応えられない教師の側にも責任はあるであろう。

 他人を批判すれば、それは必ず自分に返ってくる。改革は足元から進めなければと痛感したしだいである。