ボーイズ・ビー・アンビシャス?

 前回は最近の入試事情について書いた。要するに、最近の入試は昔よりも易しくなっており、子供たちの直面する問題をすべて入試と結びつけるのは間違いだということである。今回は、話を絞って私が今教えている北海道大学の最近の事情について書いてみたい。

 世間が北大に対して持っているイメージは、バンカラだが個性的で野心的な学生が多いというものであろう。しかし、最近の学生はむしろおとなしく、分相応の夢しか持っていないように思う。そもそも大学に入るときから、偏差値に見合った大学という動機で選択しているのだから当然といえば当然であるが。法学部では司法試験や国家公務員1種試験の受験者を増やしたいと思っているのだが、笛ふけど踊らずである。

 エリートを養成する「旧帝大」のイメージに郷愁を持つ人から見れば、入試の偏差値ランキングが低いとか卒業生が国家試験に合格しないという現状は嘆かわしいということになる。しかし、それは悪いことばかりではない。私も学生にはもっと勉強してほしいと思う。ただ、勉学と社会的上昇とを結びつけるという発想はもはや過去のものとしなければならないとも思う。昨今の官僚の腐敗を見るにつけ、従来のようなエリートはもはや必要とされなくなったと思う。

 また、大学生がアンビション(大志)を持たなくなるということは、それだけ社会の流動性が低下したということである。近代の日本社会は、優秀な若者を学校制度の中で選別し、官庁、大企業などへ送り込むという意味で流動性の高いものであった。それは日本の経済発展には寄与したであろうが、大きな社会的流動性は、社会に途方もないストレスを作り出したということもいえる。家庭の崩壊、地方におけるコミュニティの衰退などはその現れである。

 中央官庁や大企業の権威が失墜している今、あくせく出世しても大したことはないという感覚が社会に広まりつつあるだろう。学生が分相応の生き方を考えるというのもそうした社会変化の反映にすぎない。むしろ、自らの生活の場所に目を向け、NPOや環境問題に積極的に関わっていく学生は、今風のアンビションを持っているのかもしれないと、頼もしく思う。伝統的なアンビションを持つことが無意味な時代に、大学は学生に対して何をなすべきか、模索の毎日である。