受験競争に関する異論
先日、大学入試センター試験も終わり、入試の季節もたけなわとなった。新聞では、「ペーパーテストでは真の能力は測れない」、「そんな試験で選別される受験生はかわいそう」、「だから教育にゆとりを増やすべき」という常識がまかり通り、文部省も教育の多様化とゆとりを目標にして改革を進めている。
しかし、大学の教師を永年勤めていると、そうした常識に異を唱えたくなる。
第一に、ペーパーテスト以外の方法で試験を行っても、真の能力を測ることはできない。むしろ、学力を評価するにはオーソドックスな筆記試験が最も有効である。世間では、小論文や面接を増やして、学力偏重を改めるという意見が強いが、実際に試験をする側から言えば小論文で能力を測ることはきわめて困難である。小論文は、100人のうちで2、3人程度の優秀な人間を選ぶためには向いている方法だが、競争率が4、5倍程度の試験では合否を分ける尺度にはなり得ない。面接に至っては、たかが2、30分話をして何が分かるのかと言いたい。
第二に、学力偏重を改めることが大学教育のためになるのかという問題がある。教育におけるゆとりが強調される一方で、大学生の幼児化はこの数年進む一方である。単に数学や語学の基礎的な能力が欠けているというだけではない。より高い目標に向かって自分を鍛える向上心など、若者に期待される資質が著しく希薄になっているような気がするのである。学力をコツコツと積み上げる訓練が欠けていることがそうした問題の背後にあると私は思う。
もちろん学ぶことは楽しいことである。しかし、それは山登りのように、強い意志のもとに忍耐や努力をくぐって達成される喜びのはずである。誤解のないように付言すれば、高校野球のような精神主義を振りかざすのは私のもっとも嫌うところである。それにしても、知る楽しみを味わうためには、最低限の知識の習得は必要であり、受験勉強はそのために有用であったと思う。英文学の面白さを味わうためには、たくさん単語を覚え、文法を身につけなければならない。今の「ゆとり」論議は、そうした基礎のないままで、ちょうどテレビゲームのように、バーチャルな面白さを子供たちに見せる結果に終わ
るのではないかと危惧している。
入試の話が出たついでに、次回は最近の大学生について考えてみたい。
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