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三浦綾子・三浦綾子記念文学館 編著

定価 \1,680
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目次

 
序 三浦綾子がつづるあらすじ


 

第1章 氷点とわたし 三浦綾子
    なぜ私は「氷点」を書いたか
氷点あれこれ
応募作品とわたし
入選その後の1ヶ月

 

第2章 氷点を生んだ伴侶
    小説「氷点」に思う 三浦光世
三浦文学の伴走者 高野斗志美

 

第3章 愛に満ちた生涯ー三浦綾子評伝 高野斗志美

 

第4章 旅先からの手紙 三浦綾子

 

第5章 その時代は氷点をどう読んだか
    「氷点」ブームの沸点をさぐる
「氷点」はなぜ読まれるのか
「氷点」の罪 「人類の血」に思い悩む
原罪について考える
小説「氷点」を終わって

 

第6章 今に生きる氷点
    現代における「氷点」 グランド・ゼロの時代の中で  上出恵子
三浦綾子記念文学館の中の氷点  斉藤傑



第1章抜粋

机に向かって作品の構想を練る綾子(1967頃)私はなぜ氷点を書いたか
 (たった一人でもいい、この小説を読んでもらえるなら。そして人間がだれも持っている"罪"の意味を理解してもらえるなら・・・・・)
という気持ちで私は『氷点』を書いた。いわばこの小説は私の信仰の証しなのである。
 私は現在、自分ぐらいしあわせな人間はいないと思っている。『氷点』は、その私が幸福をつかんだ結果から生まれた作品といってもいい。と言うとちょっと話が飛躍するがその意味をわかっていただくためには、私のたどって来た道を聞いていただくよりほかはない。



絶望のはてのすさんだ日々

 昭和十四年、私は市立旭川高女を卒業、小学校教諭の検定試験を受けて、その年から歌志内の神威小学校に赴任した。
 "天皇の国日本"という輝かしい国体のもとで、教育にたずさわることに、私は強い誇りを持っていた。教育者として未熟な点があったとしても"教壇で倒れてもいい"という気迫だけは人に負けない自信を持って、この仕事に打ちこんだ。
 やがて、啓明小学校に移った私は、そこで敗戦をむかえた。
 スミでぬりつぶされた教科書と同じように、私の誇りや自信は根底からくずれてしまった。一生けんめいだっただけに私は教え子たちの前に顔もあげられない思いだった。
 そして、自分が信じていたものが絶対ではなかったことを知らされ、信じることの空しさ、もどかしさをつくづくと感じたのだ。
 私は絶望し、ふてくされて虚無的な毎日を送るようになった。
 私にはそのころ婚約した男性があった。そしてその結納がかわされた日、私は急に貧血を起こして倒れてしまった。
 それから一カ月後、私は結核であると宣告され、すぐに入院して絶対安静を守らねばならなくなった。
 当時肺病と言えば、食糧難のときでもあり、バタバタと患者が死んでいったときである。しかし私は、その死をむしろ待ちのぞむような自虐的な気持ちになっていた。
 間もなく小康を得て退院したものの、またすぐに療養所入りすることになった。
 こんどの療養所は、病棟が男女いっしょで、いよいよ虚無的になった私は、男の患者と酒を飲んでワイワイ騒いだりする不良患者になってしまった。
 そんな私の前にあらわれたのが前川正さんである。この人は、私と同じ小学校の二級上で、旭川中学校(現旭川東高校)から北大医学部に進んだ非常な秀才だった。
 やはり胸を患い、この療養所に入ってきた彼は、さっそく私のベッドへ見舞いに来てくれた。敏感な彼は一目で私の荒んだ生活を見抜いたようだった。
 彼は敬虔なクリスチャンだった。
 何度目かに私のところへ来たとき、彼はいつにないきびしい顔で言った。
 「綾ちゃん、もっと命を大切にしなさい。病気をなおしに来ていながらお酒を飲むなんて、命を自分からちぢめているようなものじゃないか」
 彼は自分といっしょに聖書を読むようにすすめた。
 そんな彼を、私は心の中で軽蔑していた。
 (昔の秀才も、キリストを信じるおめでたい人になってしまっては、かたなしね)
 その後も、彼は足しげく私のところへやってきてはキリストを説き、「君の言葉は乱れているから短歌の勉強をするといい」などと言って、頼みもしない本を置いて行ったりした。
 私は本気で相手にならず、あるときは"偽善者で君子ぶっている"とクリスチャンをののしりさえした。

みずからの足を打つ彼の誠実
 やがて私は退院することになったが、微熱はいぜんとしてさがらなかった。私はこの際、婚約者との間をはっきりさせるために、自分で結納を返しに行った。婚約者は、自分が働いて得たお金をそっくり私のところへ送ってくれたほど誠実で立派な人だった。だが、人生に不信を抱いている私は、結婚によって自分が救われるとはとうてい考えられなかったのである。
 生きることに喜びを失った私は自殺を企てたが、未遂におわった。死ぬことさえできない自分への情けなさから、私の生活はますます乱れていった。
 そうしたある日、前川さんが訪ねてきて、私を郊外の丘に誘った。初夏の緑が燃えるように美しい日だった。
 丘の上に並んで腰をおろすと彼は例によって私の荒れた生活をきびしく非難した。
 私はやはり反応を示さなかった。やがて彼の目に涙がいっぱい浮かんで、ポロリとひざの上にこぼれた。私がはじめて見る異性の涙だった。
 しかし、私はそれにも動ぜず、タバコを取り出して火をつけた。
 すると、彼は「ああ」という大きなためいきをついたと思うと、そばにあった小石を拾い突然、自分の足にはげしく打ちつけはじめた。
 足の甲は破れ、見る見る血が吹き出した。私はおどろいて彼の手を押えた。
 「綾ちゃん、信仰のうすいぼくには、どうしても君を救うことができない。そんなふがいない自分を罰するために、ぼくは自分の足を打つんだ」
 前川さんは、私の手をしっかりと握り、涙をポロポロこぼしながらそう言った。呆然としてその顔を見つめていた私は、さすがにその真剣さに打たれ、いつか彼といっしょに泣き出してしまった。
 それ以来、私は酒もタバコもぷっつりやめてしまった。そして、こんどこそ前川さんの教えをすなおに聞き、その精神生活を見習うようになった。カジを失った船のようにさまよっていた私の心は、前川さんによって救われ、生きる目標を見いだした。
 その後も、毎日かかさず手紙をくれる彼の激励に支えられて、私の精神状態はどんどん快方に向かったが、病気のほうは逆に悪化の一途をたどっていた。

ギプスベッドで見いだした神
 昭和二十五年の春。私は三度倒れ、こんどは札幌医大病院へ入院することになった。
 札幌へくることになったとき、前川さんは札幌の偉大なクリスチャンである西村久蔵先生を紹介してくれた。西村先生は二週間にいっぺんはかならず見舞いに見え、親戚のようなやさしさで私に接してくださった。
 そのうちに、私は脊椎カリエスであることがわかり、首から腰まですっぽりとギプスベッドに入れられて、首をまわすこともできない不自由な生活を送らねばならなくなった。
 その直前、私は西村先生のみちびきで洗礼を受ける決心をした。だが、決心はしたものの、私の心にはまだ多少の疑いの気持ちが残っていた。
 洗礼式の当日、私は西村先生に、思いきって疑問を投げかけた。
 「私は、なんだかクリスチャンになりきれないような気がするんです。今後、罪を犯せなくなるのは困ると思うんです」
 私の中には、どこかに罪が好きなところがあった。またかつて日本が神国であることを信じたように、またつまらないものを信じてしまうのではないかという不安もあった。
 そんな私に、西村先生は罪(原罪)というものの意味を、ていねいに教えてくださった。
 日本人である私たちは、罪というと国法にふれる罪のことを考えてしまう。原罪というものは、犯す罪ではなく、神を無視して自己中心の生活をすることである。
 「洗礼とは、神の子イエス・キリストの贖いを信ずることです。それを信じ、神にしたがって生きるための決意を言いあらわす儀式なのです」
 西村先生の言葉を聞いて、私は神の存在を信じることに賭けようと思った。
 洗礼を受けながら、私は思わず涙をこぼした。いま考えても、あのときの涙をウソとは思えない。
 洗礼によって私は、罪を意識しなければ神を信じることはできないことを知った。
 『氷点』の中で陽子が罪にめざめる遺言のところは、少なくともクリスチャンがきびしく自覚する罪の意識と同じである。自殺をはかった陽子が生きかえったとき、彼女はおそらく神のほうへ向いて行くであろうという願いをこめて、私はあの小説を書いた。

その人は永遠に去った
 私は神を信じることによって、わずかずつ変化していった。そのうちに、前川さんが同じ病院に入院してきた。彼は表面健康そうだったが、病状は非常に悪化していて、手術を受けなければならなかった。
 彼の手術がいちおう成功して退院してから七カ月後、私はギプスにつつまれたまま旭川の家に帰った。
 前川さんはさっそく訪ねてきてくれたが、なんとなく元気がなく、顔色も悪かった。
 冬の寒い日、いつものように見舞いに来てくれた彼は、どういうわけか、帰りぎわになんべんもなんべんもおじぎをした。しまいには自分でも笑い出して、「じつは綾ちゃんに握手をしてもらいたいのだが、なかなか言い出せなくて・・・・・」とはにかんだ。
 そして、さしのべる私の手をそっと握った彼は、それから庭に面した障子をあけ「雪が降ってますよ」と言うと、もういちど深いおじぎをして帰っていった。それが、私の会った最後の前川さんであった。
 昭和二十九年五月一日、前川さんは息を引きとった。
 その死を聞かされたとき、私は悲しみよりも怒りに似た感情が先に走った。私を導き愛してくれた人、誠実一筋に生きた若い生命を奪い去ったものへの、たとえようのない怒りであった。
 せめて死に顔にでも会いたかった。だが、一歩も動けない私にはどうすることもできない。
 私はこのときほど自分の病気を憎んだことはない。

神と向き合う幸福のなかで
 それから一年間というもの私はだれにも会わず、前川さんの喪に服した。毎晩、彼の亡くなった午前一時十四分までは眠れない習慣もついた。
 だが一年たつと、こうして悲しみにしずんだ生活からは何も生まれないことをさとった。いつのまにか、神のほうを見ないで、前川さんのほうばかり向いている自分に気がついたのだ。 
 私は彼の遺志を受けつぐ意味もあって、全国の療養者への通信奉仕をはじめた。不自由なからだを押して、一枚一枚心をこめてハガキを書きつづったのだ。
 そんなある日、療友との文通がきっかけで、私を病床に訪ねてくれた男性があった。それが三浦光世だった。
 私は最初に彼を見たとき、思わずドキッとした。亡くなった前川さんにそっくりだったのである。しかも、三浦も熱心なクリスチャンだった。
 三浦は、それからも始終見舞いに来てくれ、私のために賛美歌をうたい、私の全快を神に祈ってくれた。
 私たちはやがて深く愛し合うようになった。三浦の祈りが神に通じたのか、十三年間私を苦しめつづけた病気は、奇跡のようになおった。
 そして、昭和三十四年の五月、三浦と結婚式をあげた。私が三十七才、三浦が三十五才のときである。
 私は最初に"現在自分くらいしあわせな人間はいない"と書いた。だが、その幸福とは、この世的な金とか健康とかによる幸福ではけっしてない。そうした幸福は金や健康が失われれば、たちまち消え去ってしまうであろう。私の言うのは、それが失われてもなお残る幸福、すなわち神と向かい合っていることの真の幸福である。
 結婚後は、私は特に三浦と家族によって、それをたしかめることができた。
 三浦家の人びとは、母も兄も妹も、自分中心でない生活をしている人たちである。
 私が、家事もろくろくできず、世間に認められるかどうかもわからない『氷点』を書きつづけているころ、母は「神さまは一人一人に才能を与えているのだから」と、とがめもせず、逆にやさしくはげましてくれた。また三浦の、正しさに対するはっきりした態度も私に勇気と喜びを与えてくれた。この真のしあわせを一人でも多くの人に知ってもらい、信仰に生きるよろこびを伝えたいばかりに、私は『氷点』を執筆した。
 ここに登場する辻口家の人びとは、すべて神のほうを見ない生活をつづけている。夏枝や啓造の姿は、私の中にもだれの中にも潜んでいる"神をおそれない人間像"である。そして私は、夏枝や啓造の反対側に、神を信じる生き方を暗示させたつもりだ。
 そして陽子は、自分だけは絶対正しいと信じることを支えに生きた結果、自殺という大罪をおかすことになった。
 陽子も神のほうを向いてはいなかったのである。これらの人間たちを理解することで私は人間の持つもう一方の善意、神を信じる精神を知ってもらいたかったのである。


応募作品と私
 「秀夫がこれを綾ちゃんに見せなさいって」
 昨年の元日に母が、朝日新聞の懸賞小説の社告を見せて言った。秀夫は私の末弟である。

夫にはげまされて
 社告を一読した私は秀夫の意図を察して笑い出した。一千万円という現実離れのした賞金も、千枚の長編も、私とは無縁のものであったからである。わけても、「既成の作家、無名の新人を問わない」
 という応募資格の一項の、「既成作家」に威圧されて、書いてみようなどという気はその時は全くなかった。
 ところがその夜である。寝つきの悪い私は床の中でいつの間にか長編のストーリーを考えていた。一夜にして決ったそのあらすじを夫に話すると、慎重居士には珍しく、
 「うん、いいね。書いてごらん」
 と言ってくれた。テーマは原罪である。
 小学校五年生の時、生れて初めて「ほととぎす鳴く頃」という、あだ討をからませた恋愛小説を書いた。受持の渡辺先生が級友たちの前で読んで下さったことを憶えている。
 それから二十年後、療養中に百枚ほどの習作を二編書いたことがあるだけである。

大変な千枚の原稿
 私は先ず千枚、四十万字を千三百字で割ってみた。三百七回である。三百七日という一年近いこの歳月には、地震、台風、火災、洪水、交通事故、凶悪犯罪、選挙等等の刺激的な事件が起るかも知れないし、個人の身近にも恋愛、結婚、誕生、病、死等のことも起き得る。こうした中で一年近い歳月を毎日千三百字ずつ読まれる新聞小説というものの大変さを私はつくづくと思った。
 新聞小説は物語性のみならず、小説自身にかなり重要な問題を持たさなければならない。できるなら毎回、何か読者の心に訴えて行かねばならない。それは何か。作者自身の真実な叫びではないかと私は思った。
 原罪というテーマは、私の切実な叫びである。この叫びを持っている以上書くべきではないか。そう思うと「書こうかしら」という気持ちはいつしか「書かねばならぬ」思いに変っていた。
 技法としては河出書房の文章講座4創作方法一に所載の丹羽文雄氏の新聞小説作法に学んだ。
 懸賞小説は特に地方在住の作家志望者には大きなチャンスである。作品を見てほしい思いはあっても、その機会も術も知らぬままに時は過ぎる。私のようにコネもないズブの素人が思いがけなく十二人の中に残ったということに懸賞小説のすがすがしさを私は感じた。
 幾度か自分自身を誇大妄想狂ではないかと疑いながらも、審査委員のどなたかは必ず読んで下さる、それだけでもいいではないかと心励まして、雪にぬれないようにと荷札も小包もビニールに包んで原稿を送ったのであった。

作品は「私の子供」
 私は町のはずれの小さな雑貨食料品屋のオカミサンである。いかに小さくても店は店、ひる書く暇はほとんどなかった。
 夜十時に店を閉めてから午前二時ごろまで書いた。調子のよい日は二十枚から三十枚とはかどったが、三枚ぐらいしか書けない日もあった。
 夫が役所から帰ると、書いた分ずつ読んでもらう。夫もアララギで歌を学んでいるからなかなか手きびしい。
 「まずいねえ」
 の一言で、私の前夜の労作はくずかごに入れられ、また書き直さなければならなかった。
 子供のない私には、この作品が私たちの子供のように思えることがある。
 十月十日ならぬ十二ケ月子である。


 
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